第二十一章 昼の顔
オオタのアパートは、首都高の高架下から少し歩いた場所にあった。
昼間に来るのは初めてだった。インターフォンを押すと、少し間があってから開いた。
出てきたオオタは、思ったより小さく見えた。
夜の首都高で並んで走っている時は、そんなことを思わなかった。しかし昼間の光の中で見ると、やつれた感じがあった。目の下に影がある。寝ていないのか、それとも何か別のことで消耗しているのか。
「お邪魔します」
「どうした」とオオタは言った。「見ての通り何もないぞ」
「いい」
オオタは少し考えてから、中に通した。
部屋は狭かった。しかし車関係の本と、パーツのカタログと、ノートが積まれていた。ノートを見ると、びっしりと数字が書いてあった。回転数、油温、タイヤの空気圧、コーナーごとのブレーキングポイント。几帳面な字だった。
「毎回書いてるのか」
「走った後に書く」オオタはノートをさりげなく閉じた。「記録しないと、何が変わったかわからなくなる」
涼はその几帳面さと、壁を舐めた夜の走りが、うまく重ならなかった。
缶コーヒーを二本、オオタが冷蔵庫から出した。
窓の外に、高架が見えた。首都高の高架だった。昼間の光の中では、ただのコンクリートの構造物だった。
「ここに住んでるのは」涼は窓を見ながら言った。「意図してるのか」
「意図してる」
「見えてた方がいいのか、首都高が」
「見えてないと、落ち着かないヨ」オオタはコーヒーを飲んだ。「変な話だけど」
「変じゃない」
オオタは少しだけ笑った。昨夜と違う笑い方だった。昼間の顔だった。
「シビックを弄った、とメッセージが来てたな」と涼は言った。
「ああ」
「どこを」
「カムとポート。あとECUを書き直した」
涼は少し間を置いた。「ECU!?ミウラさんに頼んだのか」
「違う」
「違う?」
「自分でやった」
涼はその言葉を、すぐには返せなかった。ECUの書き直しを自分でやる、ということの意味がわかったからだ。リスクが跳ね上がる。セッティングが合わなければ、エンジンが終わる。最悪の場合、走行中に。
「ミウラさんに見せたか」
「見せてない」
「なんで」
オオタは窓の外を見た。高架のコンクリートを、昼間の光が照らしていた。
「止められるから」静かに言った。「止めるための言葉を、ミウラさんは持ってるから。止められたくない」
涼は何も言えなかった。
止めるための言葉を持っていない自分が、今ここにいる意味を考えた。何をしに来たのか。何ができるのか。
「走るか」と涼は言った。
「今夜か」
「今夜」
オオタは少し考えた。それから頷いた。
「走ろう」
夜になった。
シビックのエンジン音が変わっていた。
音の密度が増していた。同じB18Cベースだが、別のエンジンのように聞こえた。パワーが上がっているのは、走り出す前からわかった。
涼はインテグラで後ろについた。
序盤から、ペースが高かった。
オオタのシビックが踏んでいる。踏み続けている。コーナーへの入り方が、以前より攻めていた。ラインが際どい。しかし乱れない。ECUの書き直しが、うまく機能している。
涼は追いかけた。
追いかけながら、引っ張られないようにした。ヤマネに言われた言葉を思い出した。お前が速くなれば、オオタはお前を追いかける。
しかし今夜は、オオタが先に行っていた。
涼が引っ張る側ではなかった。追いかける側だった。
湾岸の長い直線に入った時、それは起きた。
前方に、黒いコンパクトカーがいた。
最初は気にしなかった。しかし何かが引っかかった。速度が、普通ではなかった。前方にいるはずの車が、縮まってこなかった。
縮まらない。
涼がアクセルを踏み足した。それでも縮まらない。
オオタのシビックも、同じことに気づいたはずだった。シビックのペースが上がった。上がったのに、前方の黒い車との距離が変わらない。
涼の心臓が、速くなった。
あの車だ。
あの、黒いコンパクトな車だ。
「オオタ」電話で言った。「前の車見えるか」
「見える」オオタの声が返ってきた。いつもより少し高かった。「……黒いFitだ」
「そうだ」
「追えるか」
涼はアクセルを床まで踏んだ。
「追う」
しかし差は縮まらなかった。縮まるどころか、前方の赤いテールランプが、じわじわと遠くなっていく。踏んでいる。全部踏んでいる。それでも遠くなる。
「届かない」オオタが言った。
「まだ踏め」
「踏んでる。でも」
遠くなる。遠くなる。
やがてテールランプが、夜の向こうに溶けた。
消えた。
涼はアクセルから足を離せなかった。惰性で走り続けた。エンジンの音だけが残っていた。
「……また」オオタの声が、電話から来た。「また、背中だけだ」
涼は何も言えなかった。
一年以上走り続けた。速くなった。確かに速くなった。しかしあの黒いFitは、まだ遠かった。途方もなく遠かった。
しかし今夜は違うことがあった。
以前は存在すら認識できなかった。今夜は、テールランプを視界に捉えながら、追いかけることができた。差は縮まらなかった。しかし見えていた。
見えていた、ということが、今夜の全部だった。
「もっと速くなる」涼は言った。独り言のように言った。
「ああ」とオオタが答えた。「もっと速くなる」
二人の声が、深夜の首都高に吸い込まれていった。




