第二十章 測られる側
噂の広まり方が、変わっていた。
以前は「青いインテグラ」という車の話だった。それがいつの間にか「中村」という名前で語られるようになっていた。気づいたのは、ヤマネに言われてからだった。
「お前、名前で呼ばれてるぞ」
「いつから」
「しばらく前から」ヤマネは煙草を吸った。「車じゃなくて人間の名前で呼ばれるようになったら、この道での格が変わったってことだヨ」
「別に」
「別に、じゃないヨ」ヤマネは少し笑った。笑い方が珍しかった。「素直に受け取れ。お前が走り続けた結果だ」
その男が大黒PAに現れたのは、金曜の深夜だった。
イワタといった。三十代前半。クロスのメンバーだと、後から聞いた。しかしその夜は名乗らなかった。ただ涼のインテグラを一周見て回って、言った。
「走れるか」
「走れる」
「一対一でいい」
それだけだった。
車はBNR32型スカイラインGT-R。黒いボディ。RB26DETTのAWD。R35ほどではないが、本物の速さを持つ車だった。
乗り方を見れば、腕もわかった。
丁寧だった。無駄がなかった。クロスにいながら、走り自体は正直だった。挟むわけでも、幅寄せするわけでもなく、ただ速く走ろうとしていた。
それはわかった。
わかった上で、涼は踏んだ。
長い右コーナーで、並んだ。
BNR32のAWDが路面を掴む。立ち上がりのトラクションはこちらより確実に上だ。しかし涼はブレーキングをもう一段奥まで引きつけた。インテグラのフロントが向く。アクセル。FFの弱点はここだ。しかしこのコーナーの角度なら、踏める。
並んだまま、出口まで持った。
次の区間で、BNR32が引き離しにかかった。RB26が唸る。差が開く。涼は次のコーナーだけを見た。直線は捨てた。捨てると決めたら、迷わなかった。
鋭い左コーナー。
ブレーキング。壁が近い。近いとわかっていても、視線を壁に向けなかった。出口を見た。出口だけを見た。インテグラが向く。アクセル。
前に出た。
大黒PAで、イワタは少しの間、自分の車を眺めていた。
涼が降りると、振り向いた。
「FFで、R32に勝つのか」
「今日は勝てた」涼は言った。「また走ったら、わからない」
イワタは少し考えた。考えてから、珍しい表情をした。クロスのメンバーのそれではなく、もっと素直な、走り屋の顔だった。
「もう一本行くか」
「行こう」
二本目も、涼が前に出た。
翌朝、シノザキに報告が入った。
モリタ経由ではなかった。イワタが直接電話をしてきた。珍しかった。
「負けました」
「わかってる」とシノザキは言った。「見てたヨ」
沈黙があった。
「どこにいたんですか」
「少し離れた場所から」
「見ててどうでした」
シノザキはしばらく間を置いた。
「ブレーキングのタイミングが、変わっていた」静かに言った。「一ヶ月前の映像と比べると、明らかに奥になってる。毎週変わってる。あいつは今も成長している」
「つぶしますか」
「まだだ」
「でも、放っておけば」
「放っておけば厄介になる」シノザキは続けた。「わかってる。ただ」少し間があった。「イワタ、お前は悪くない走りをした。あのインテグラが上だっただけだ」
イワタは返事をしなかった。
電話を切った後、シノザキは窓の外を見た。
中村涼。
クロスのやり方で潰すのは、いつでもできる。しかし何かが引っかかっていた。
あの走り方には、速さへの向き合い方がある。自分がかつて持っていて、いつの間にか捨てたものに近い何かが。
煙草を取り出した。
火をつけようとして、やめた。
その夜、オオタが大黒に来なかった。
涼はメッセージを送った。既読がついた。返信は来なかった。
ヤマネも気づいていた。
「今夜は来ないな」
「メッセージしたけど、返事がない」
ヤマネは遠くを見た。
「明日、シビックを見に行け」とヤマネは言った。「走ってからじゃなくて、昼間に会いに行け」
「何かあると思いますか」
「わからない」ヤマネは煙草を踏み消した。「ただ、夜だけ会ってる奴の昼間の顔を、お前はまだ見てないだろう」
涼はその言葉を、すぐには返せなかった。
そうだった。
オオタとはいつも夜だった。首都高の光の中でしか会っていなかった。昼間のオオタを、涼は知らなかった。
インテグラのキーを握ったまま、しばらくPAの照明を見上げていた。




