第十九章 限界の外
オオタのシビックが、壁を舐めた。
舐めた、という表現が正確だった。クラッシュではなかった。タイヤが壁に触れて、火花が散って、しかしオオタはアクセルを緩めなかった。そのまま立ち上がっていった。
涼は後ろからそれを見ていた。
心臓が止まりかけた。
コーナーの立ち上がりで、シビックのテールランプが揺れた。揺れた、ということは立て直したということだ。立て直せた。今夜は。
大黒PAに戻ると、オオタは先に停まっていた。
車から降りて、右のリアフェンダーを見ていた。白いボディに、黒い擦り傷が一本走っていた。
「見てたか」とオオタは言った。振り向かないまま。
「見てた」
「驚いたか」
「驚いた」
オオタは擦り傷をしばらく眺めてから、煙草に火をつけた。
「限界がわかった」とオオタは言った。「あそこが限界だ」
「違う」涼は言った。「あそこは限界の外だ」
オオタは少しだけ笑った。いつもと違う笑い方だった。目が笑っていなかった。
「同じだヨ」
「同じじゃない」
「お前には」オオタは煙草を吸った。「わからないかもしれないけどナ。限界の少し外まで行かないと、限界が見えない。見えないと、削れない」
「削ってどうする」
「もっと速くなる」
涼は何も言えなかった。
言葉が、届く場所にいなかった。
ヤマネに話したのは翌日だった。
「壁を舐めた」
ヤマネは黙って聞いた。
「本人は限界がわかった、と言ってた」
「そうか」ヤマネは煙草を指で挟んだ。「……わかった、じゃなくて、触れた、だヨ。あれは。限界を把握したんじゃなくて、限界に触れることで自分がまだ生きてるのを確認してる」
「止められますか」
「止められないヨ」即答だった。「止める言葉を、オレは持ってない。あいつの中にあるものは、外から触れる場所にない、とミウラも言ってただろう」
「じゃあどうすれば」
ヤマネはしばらく黙った。
「一緒に走れ」やがて言った。「止めようとするな。速さで引っ張れ。お前が速くなれば、オオタはお前を追いかける。追いかける対象がある間は、あいつはこっち側にいる」
「それは」涼は少し間を置いた。「オレの速さが、あいつに追いつかれたら」
「その時は」ヤマネは煙草を踏み消した。「またもっと速くなれ」
松田から連絡があったのは、その夜だった。
「SVXのこと、少し調べてみたんですよ」
「何かわかりましたか」
「ミウラさんに聞いたら、ちょっとだけ教えてくれて」松田は少し間を置いた。「白石研二って人、知ってますか」
「名前だけ」
「その人がこのSVXで走ってたんですって。かなり速い人だったって。で、ミウラさんのショップで整備してもらってたって」
「それ以上は」
「それ以上は教えてもらえなかった」松田は少し笑った。「でも、一つだけ気になることがあって」
「何ですか」
「WZEBRAっていうステッカー、ありますよね。調べてみたんですけど、昔のチューナーショップで、スバルのエンジンを専門にしてたって。で、デモカーを持ってたって話があって」
涼は少し黙った。
「デモカーが、何か」
「写真が一枚だけ残ってて」松田は声が変わった。「インプレッサのSTiなんですよ。セダンで、蒼い色の」
首都高の夜が、少し静かになった気がした。
「それが」涼はゆっくり聞いた。「今も走ってると思いますか」
松田は少し間を置いた。
「わからないですけど」静かに言った。「なんか、走ってそうな気がして。理由はないんですけど。あのステッカーを見てると、そういう気がするんです」
電話を切った後、涼はしばらく天井を見ていた。
WZEBRAのデモカー。蒼い、GDB型のCタイプインプレッサ。
知っていた。知っていたわけではないが、繋がった。C1でシノザキが見たという話が、大黒PAで広まっていた。湾岸だけに出ていたものが、C1に現れた。
何かが変わっている。
この首都高で、何かが動いている。
涼にはまだ、その全体像が見えなかった。見えないまま、インテグラのキーを手に取った。
走りながら考えるしかなかった。それしかなかった。




