第十六章 亀裂
その夜のクロスは、三台で動いていた。
都心環状。C1。首都高の中でも最も古い区間で、カーブが多く、道幅が狭い。得意とする者には武器になり、不慣れな者には罠になる道だった。
ターゲットはFD3Sだった。赤いボディ。
先頭のモリタのランエボがペースを作る。FDの前に入り、意図的に速度を落とす。FDがブレーキを踏む。後続のクロスの二台が詰める。前後を挟む形になった。
「綺麗に入った」と後続の一台が無線で言った。
「このまま壁際に寄せる」とモリタが返した。「次の右コーナーで右から押す。準備しろ」
「了解」
右コーナーが来た。
来た、と同時に。
無線に雑音が入った。
「何だ」
「後ろに」後続の声が変わった。「後ろに、何かいる」
モリタはミラーを見た。
いた。
ヘッドライトが一対。遠い。しかし近づいてくる速度が、おかしかった。C1のこの区間で、あの速度が出るはずがなかった。カーブが多すぎる。壁が近すぎる。普通の車なら、速度を落とさざるを得ない区間だった。
しかしその光は、速度を落とさなかった。
「何の車だ」
「わからない。セダン……だと思う。」
「色は?」
「蒼い」
蒼いセダンがクロスの三台に追いついたのは、次のS字だった。
後続の一台が幅を寄せた。本能的な動きだった。追ってくるものを壁側に追いやろうとした。クロスの戦い方だった。
意味がなかった。
蒼いセダンは、幅寄せしてくる車を気にしなかった。気にしないのではなく、その車の動きが介入できる速度域に、そもそもいなかった。S字の入り口で、セダンがコーナーに向いた。
「はっ?」
三台の間を、蒼いセダンは抜けた。
「速い!止められない」後続の声が、無線に返ってきた。
モリタは答えなかった。
シノザキが合流したのは、その十分後だった。
モリタから無線が入った時、シノザキはC1の外周にいた。珍しく単独で、ゆっくり走っていた。
「蒼いセダン?」
「インプレッサだと思います。STiの」
「湾岸じゃなくて?」
「はい」
シノザキはしばらく黙った。
湾岸に出る、という話は聞いたことがあった。目撃談は何度も耳にしていた。しかしC1で見たという話は、聞いたことがなかった。この区間に出るなら、湾岸よりずっと前から話が広まっているはずだった。
「追えるか」
「無理です」モリタの声が答えた。「もうどこにもいない」
「わかった」
無線を切った。
C1のコーナーを、R35が曲がった。AWDが路面を掴む。シノザキの計算通りの速度で、計算通りのラインを通った。
悪くない動きだ、と思った。しかしモリタの言葉が頭に引っかかっていた。
”通り過ぎるようでした”
クロスのやり方を知っている人間なら、三台に挟まれた時点でペースを落とすか、出口を探す。それが普通の判断だ。しかしそのセダンは、三台を障害として認識しなかった。
できなかったのではなく、する必要がなかったから。それ以外は考えられない。
それから三十分後、シノザキは自分の目で見た。
トンネル前の長い左コーナーで、後方に蒼いボディがあった。
速かった。R35が全力で走っている。それでも凄いペースで差が縮まっていく。
トンネル内のコーナーに入った。
シノザキは息を飲んだ。
「あの角度…板金確定か」
蒼いセダンがコーナーに向いた瞬間。
「…ッ!?」
タイヤが鳴かない。ボディが揺れない。速度が落ちない。あの車にとって、このコーナーは存在しないも同然だった。壁も、路面の変化も、重力も、全部を無視したような動きで、セダンはこちらの内側に入り込みコーナーを抜けた。
次の瞬間、シノザキは踏んだ。
R35のVR38DETTが唸った。シノザキはさらに踏んだ。踏み続けた。
蒼いボディは、遠くなっていった。
遠くなって、消えた。
コーナーの向こうで、夜に溶けるように。
シノザキは駐車スペースに入って、エンジンを切った。
しばらく何もしなかった。
速さは計算だ、とずっと思ってきた。感情を排除して、最適解を選ぶ。それが速さだと思ってきた。
あのセダンは、計算ではなかった。
計算を超えた何かだった。物理の外にいるような何かだった。あれは速いという話ではなかった。速さという概念が、そもそも違う場所にいた。
それよりも。
シノザキの頭に引っかかっていたのは、別のことだった。
湾岸線に出る、と言われていたものが、C1にいた。
なぜ、今夜、C1に。
煙草に火をつけた。煙を吸った。吐いた。
答えは出なかった。しかし、その問いが頭から消えなかった。
何かが変わった。あのセダンに関して、何かが変わっている。
窓の外で、首都高の夜が続いていた。答えを持たないまま、シノザキはもう一度煙草を吸った。




