第十五章 白い骨格
噂を最初に聞いたのは、カジワラからだった。
「白いSVXが出てる」
大黒PAで、コーヒーを飲みながら言った。世間話のような口調だった。しかし目が笑っていなかった。
「アルシオーネですよね」
「そう。それで、ウィングが付いてて、フルエアロ。リアのガラスにステッカーが一枚だけ貼ってある」
「何のステッカーですか」
カジワラは少し間を置いた。
「WZEBRA」
涼にはわからない名前だった。
「チューナーだヨ」カジワラは遠くを見た。「もう店は畳んでる。富士…ああ、スバルのエンジンを得意にしてたショップだ。かなり腕の良い……昔の話だけどナ」
「そのアルシオーネ、誰が乗ってるんですか」
「……わからない」
「それはどういう…あ、ちょっと!」
それだけ言って、カジワラはコーヒーを一気に飲み干して行ってしまった。
実際に見たのは、それから三日後だった。
東京エクスプレスウェイの駐車スペースに、白いボディが停まっていた。
最初は気づかなかった。白い車など珍しくない。しかし通り過ぎた後で、シルエットが頭の中に引っかかった。あの後ろに引っ張られるような独特のルーフラインは、まさか。涼は車をUターンさせて、隣に停めた。
アルシオーネSVXだった。
白石みたいな白ではなく、少し黄ばんだ白だった。年式を考えれば当然だ。しかしボディは丁寧に手入れされていた。ウィングが低く構えている。サイドのエアロが、この車をひと回り低く見せていた。
リアウィンドウを見た。
ステッカーが一枚。
シンプルにWZEBRAという文字。古いステッカーだった。色が少し褪せていた。しかし剥がされていなかった。
車内に人影はなかった。
涼はしばらく、その車の周りを歩いた。エンジンルームは当然見えない。しかしタイヤの減り方が、飾りで持っている車のそれではなかった。ちゃんと走らせている車の減り方だった。
「珍しい車だよな」
後ろから声がした。
振り返ると、三十代くらいの男が立っていた。背が低い。人当たりの良さそうな顔。しかし目だけが、車を見る時に別の表情になっていた。
「あなたの車ですか」
「そう」男は言った。「松田っていいます」
「中村です。どこで手に入れたんですか、これ」
「知り合いのショップで。前色々とお世話になってた、ミウラさんって人の紹介で」
涼は少し驚いた。
「ミウラさんを知ってるんですか」
「最近は会ってませんけどね」松田は車を見た。見方が、オーナーのそれというより、まだ距離を測っているような見方だった。「買ってから日が浅くて、まだよくわかってないんですよね、この車のこと」
「走らせてみましたか」
「少し。重さが変な感じで」松田は言葉を探した。「重さに、意志があるみたいな」
涼にはその感覚が、なんとなくわかった気がした。
「ステッカー、もとからありましたか」
「ありました。剥がそうかとも思ったんですけど」松田はリアウィンドウを見た。「なんか、剥がしちゃいけない気がして」
二人の間で、風が通り過ぎた。
「前のオーナーのこと、何か聞きましたか」涼は聞いた。
「ショップの人から少しだけ」松田は少し間を置いた。「速い人だったって。それだけ」
それだけ、と言ったが、それ以上聞かなかった。聞けない何かが、その短い言葉の後ろにある気がした。
ミウラに電話したのは、その夜だった。
「アルシオーネを見ました」
「SVXの?…そうか」ミウラの声は、特に驚いていなかった。
「松田さんという人が持ってた。ミウラさんの紹介だって言ってた」
「そうだな。アイツ、結局買ったのか」
「前のオーナーのこと、教えてもらえますか」
少し間があった。
「白石研二という男だ」ミウラは静かに言った。「昔、この辺でよく走ってた。速い男だった。……今はもういない」
「亡くなったんですか」
「ああ」
「何で」
「病気だ」それだけ言った。「走れなくなるまで走って、走れなくなってから少しして、死んだ」
涼は何も言えなかった。
「SVXはそれから中古市場に出た。松田が買った。……偶然だよ、縁ってのはそういうものだ」
電話を切った後、涼はしばらく天井を見ていた。
走れなくなるまで走って。
その言葉が、頭の中で繰り返された。
白石研二という名前を、今夜初めて知った。しかしあの白いSVXのタイヤの減り方と、褪せたWZEBRAのステッカーは、確かにそこにいた人間の話をしていた。




