第十四章 先触れ
モリタの報告書は、簡潔だった。
中村涼。二十二歳。DC2型インテグラ タイプR、ミッドナイトブルー。改造歴およそ一年半。エンジン腰下のバランス取り済み。足回りは専門ショップによるセッティング。走行パターンは火曜と金曜の深夜、大黒PAを起点に湾岸から都心環状を繰り返す。同行者はEK9シビックのオオタという男、RX-7のヤマネとの接点あり。
「ヤマネの関係者か」とシノザキは言った。
「直接の師弟関係ではないと思います。ただ、面識は深い」
「そうか」
シノザキはモリタのまとめた紙を一度だけ見て、テーブルに置いた。
「今夜、少し走ってみろ」
「潰しますか」
「違う」静かに言った。「触れるな。ただ、走れ。同じ時間帯に、同じ区間を」
モリタには意味がわからなかった。しかし聞き返さなかった。
涼がそれに気づいたのは、三周目だった。
黒いランサーエボリューションが、後ろにいた。
速い車だった。しかし追ってくるわけではなかった。一定の距離を保ったまま、ついてくる。抜こうとしない。煽るわけでもない。ただ、いる。
奇妙だった。
涼はペースを上げた。ランエボもペースを上げた。距離は変わらない。涼がコーナーで仕掛けても、ランエボはそれに合わせるだけで、前に出ようとしなかった。
五周目に入った頃、ランエボは出口で降りた。
何も起きなかった。
大黒PAに戻ると、オオタが先に戻っていた。
「後ろにいたの、わかってたか」
「わかってた」涼は言った。「何がしたかったのか、わからなかったけど」
「クロスだよ」オオタは短く言った。「ランエボはモリタって奴の車だ。シノザキの右腕」
「何のために」
「見てたんだ、お前を」オオタはPAの向こうを見た。「距離を測ってたんだ。どこで踏んで、どこで抜いて、どこが隙になるか。それを調べてた」
涼は少し黙った。
「シノザキが動く前の、先触れだ」
その話をヤマネにしたのは翌日だった。
ヤマネは煙草を吸いながら、黙って聞いていた。最後まで聞いてから言った。
「追ってこなかったんだよナ」
「来なかった」
「距離が変わらなかった?」
「変わらなかった」
ヤマネはしばらく考えた。
「それは、お前のことを舐めてるわけじゃないヨ」ゆっくり言った。「むしろ逆だ。舐めてる相手には、あんな丁寧なことはしない」
「警戒してる、ということですか」
「警戒というか」煙草を指で挟んだ。「シノザキって男はナ、負ける可能性のある相手には必ず準備をする。準備する価値があると思ったってことだ、お前のことを」
「褒めてるわけじゃないですよね」
「褒めてないヨ」即答だった。「危ないと言ってる」
涼は頷いた。
「どうすればいい」
「走り続けることだ」ヤマネは煙草を踏み消した。「それしかないヨ。あいつらが何を準備しようと、こっちの走りがそれを上回れば関係ない。……問題は」
「問題は」
「お前がまだ、シノザキに届いてないことだヨ」静かに言った。「あいつは本物だ。汚い手を使うのは、それとは別の話だ。本物の速さを持ってる。今のお前では、まだ正面から勝てない」
涼は何も言わなかった。
「だからといって」ヤマネは続けた。「縮こまる必要もない。ただ走れ。今夜も、明日も。それだけだ」
帰り道、涼はバックミラーを意識していた。
ランエボはいなかった。他に怪しい車もいなかった。首都高はいつもと同じ夜だった。
しかし何かが変わった気がした。
自分が走っている。それは前と同じだ。しかし今夜からは、走ることで誰かに見られている。測られている。どこかで誰かが、自分のラインとペースをデータとして積み上げている。
それが気持ち悪かった。
気持ち悪い、と感じながらアクセルを踏んだ。
踏むしかなかった。縮こまる理由はなかった。見られているなら、見せるだけだ。測られているなら、測りきれないほど変わり続けるだけだ。
そう思いながら、涼は首都高の壁の間を走り続けた。
ミッドナイトブルーのボディが、夜の光の中で蒼く滲んでいた。




