第十一章 一番弱いところ
エンジンがかかった瞬間に、何かが違った。
音ではなかった。振動でもなかった。もっと曖昧な何かが、ステアリングを通じて手に届いてきた。涼はしばらくそのまま停まっていた。駐車場の片隅で、アイドリングの振動を感じながら。
「どうだ」
シートに背中を預けたまま、涼は言った。
「わかりません、まだ」
「走ってくれば?待ってるよ」
ショップの店主、ミウラは工具を拭きながら言った。五十代。口数が少ない。しかし作業中だけは別人のように饒舌になる。今日は三時間、ほとんど喋り続けていた。
作業の内容は、エンジンの腰下だった。
クランクシャフトのバランス取り。コンロッド、ピストンの重量合わせ。数字だけ聞けば地味な作業だ。馬力が上がるわけではない。最高速が伸びるわけでもない。
しかし回り方が変わる。
「バランスってのは」ミウラはクランクを磨きながら言っていた。「数字が揃えばいいってもんじゃないんだ。揃えた数字が、実際の回転の中でどう動くか。それが全部で一つの運動になった時に初めて、エンジンというものになる」
「部品の集まりじゃなくて」
「そうだ。全部同じに揃えても、アンバランスなこともあるもんだ」
涼はその言葉を聞きながら、工具の動きを目で追っていた。
「馬力を上げる方法なら他にもある」とミウラは続けた。「ターボを積む。カムを換える。ポートを削る。数字は上がるよ。でもな、土台が揃ってない車に馬力だけ足すのは、一番細い柱に一番重い屋根を乗せるようなもんだ。いつか、どこかが折れる」
「チェーンの一番弱いリンク」
「ヤマネから聞いたか」ミウラは少し笑った。「あいつはうまいことやってるナ。オレの言葉だけど。」
走り出すと、わかった。
何が変わったのかは、うまく説明できなかった。加速が速くなったわけではない。コーナーが曲がりやすくなったわけでもない。しかしエンジンが、均一に回っていた。
以前は気づかなかった微細な振動が、なくなっていた。
回転数が上がるほどに、その違いが出た。六千を越えた辺りから、以前なら感じていたわずかなざらつきが、消えていた。八千まで、一本の線を引くように回った。
涼は首都高のストレートで、一度だけレブリミットまで引っ張った。
────滑らかだった。
ただそれだけだったが、それだけで全部だった。
ショップに戻ると、ミウラが珈琲を二つ用意して待っていた。
「どうだった」
「わかりました、違いが」
ミウラは頷いた。多くを言わなかった。
涼は珈琲を受け取って、少し考えてから聞いた。
「次は何を変えればいいですか」
「何も変えなくていい」即答だった。
涼は少し驚いた。
「今のお前のインテグラに、足りない部品はない。突然だが、ゲームとかするか?」ミウラは珈琲を飲んだ。
「まあ、少し。でも何故ですか?」
「足りないのは部品じゃなくて、走り込みだヨ。今夜変わったエンジンを、お前の身体が覚えるまでには時間がかかる。」
「覚えないまま次を変えても、何が良くて何が悪かったかわからなくなる。ゲームで頻繁に視線感度を変えると起こるアレだ。わかるだろ」
「変えるより走れ、ということですか」
「そうだヨ。改造ってのはナ、走り込んだ先に壁が見えた時にするもんだ。壁が見えてないうちに変えても、その場で回り続けるだけだ」
「オオタも来ますか、ここに」
ミウラの手が、少しだけ止まった。
「来るヨ」
「最近、あいつの改造のペースが上がってる気がして」
「上がってるナ」ミウラは珈琲を置いた。「……止めようとしたヨ、一度。でもあいつは聞かなかった。壁が見えてるんじゃなくて、壁を壊そうとしてる」
「それは」
「危ない走り方だヨ」静かに言った。「でもオレには止める権利はない。止める言葉も、たぶんない。……あいつの中にある何かは、外から触れる場所にない」
風が通り過ぎた。
シャッターの向こうで、夜が深くなっていた。
「お前はいい走り方をしてる」とミウラは言った。涼を見ていなかった。「欲張らない。今あるものを全部使う。それがわかってる奴は、長く走れるヨ」
褒めているのかどうか、わからなかった。
しかしミウラが誰かの走り方に言及するのは、珍しかった。それだけはわかった。
涼はエンジンキーを握ったまま、少しの間だけ考えた。
オオタのシビックの音が、また耳の奥に蘇った。あの低く、腹に響く音。澄んでいない音。
壁を壊そうとしている、とミウラは言った。
壁の向こうに何があるか。
涼には、まだわからなかった。




