第十章 二千メートル
クロサワのR34は、静かだった。
アイドリングの音が低く、安定していた。無駄な振動がない。整備が行き届いている車の音だった。ボディはガンメタリック。雨上がりのアスファルトに、夜の光が反射していた。
「インテグラか」
クロサワは四十代後半だった。背が高く、声が低い。涼のインテグラを見た時の目が、値踏みではなかった。ただ確認していた。
「FFだな」
「そうです」
「R34と走るのは初めてか」
「GT-Rとは初めてです」
クロサワは少し間を置いた。
「やめとけとは言わないよ。ただ、直線で張り合おうとするな。それだけだ」
忠告なのか、牽制なのか、わからなかった。どちらでもよかった。
「行きましょう」
一コーナー目で、涼は全部を理解した。
GT-Rのコーナリングは次元が違った。AWDが四輪全部で路面を掴む。立ち上がりでアクセルを踏んだ瞬間の加速が、FFとは根本的に違う。トラクションが抜けない。内輪が空転しない。踏んだ分だけ、そのまま前に出る。
直線でターボが効き始めた。
離された。
あっという間だった。RB26の6気筒ツインターボが唸り始めると、インテグラのB18Cでは追いかけることすらできない。速度差が出る前に、次のコーナーを考えるしかなかった。
二コーナー目。
涼はブレーキングを限界まで遅らせた。GT-Rが減速を始める地点の、さらに奥まで引きつけた。インテグラが軽い。軽いから止まれる。止まれるから、奥まで踏んでいられる。
フロントが向いた、アクセルで引っ張る。
GT-Rの立ち上がりに、少し届いた。
直線でまた離される。
三コーナー目で、また詰める。
自分のバトルフィールドに、直線は存在しない。直線はGT-Rのものだ。涼にとって直線は、次のコーナーまでの準備区間でしかない。コーナーの入り口、コーナーの頂点、コーナーの出口。それだけに集中した。
GT-Rのブレーキングのタイミングを読んだ。
クロサワは丁寧なドライバーだった。無理をしない。余裕を持って減速する。それがGT-Rという車の走らせ方でもあった。AWDは限界が高い代わりに、限界を超えた時のリカバリーが難しい。だから余裕を持って走る。
そこに、隙がある。
七コーナー目。涼は一つ深く入った。GT-Rが想定していないタイミングで、インテグラが内側に飛び込んだ。フロントが鋭く向く。アクセル。FFの弱点はトラクションだ。しかしこのコーナーは緩い。緩いコーナーなら、FFでも踏める。
並んだ。
一瞬だけ、横にGT-Rがいた。
次の直線でまた離された。しかしその一瞬は確かにあった。
GT-Rのラインが、少し変わった。コーナーの入り方が、微妙に変わった。涼が仕掛けてくるコーナーを、クロサワが読み始めていた。
対応されている。
それがわかった瞬間、涼は少しだけ笑った。
対応してくれるということは、脅威として認識されているということだ。R34GT-RのドライバーがFFインテグラのラインを気にしている。それだけで、十分だった。
涼はラインを変えた。
仕掛けるコーナーを、変えた。読まれたと思ったコーナーで、あえて仕掛けるのをやめた。やめた分だけ、次のコーナーに集中した。クロサワが涼のラインを読もうとするほど、涼はラインを読まれないように走った。
十三コーナー目。
GT-Rのブレーキングが、わずかに早かった。
涼は飛び込んだ。
限界の奥まで入った。タイヤが鳴いた。壁が視界の端に見えた。見えたまま、アクセルを踏んだ。インテグラのフロントが、ぎりぎりのところで向いた。
前に出た。
直線。GT-Rが来る。RB26が唸る。差が縮まってくる。次のコーナーまで、持つかどうか。
持った。
コーナーに入った瞬間、涼は前にいた。
ゴールラインを越えた時、二台の間には車半分の差があった。
大きな差ではなかった。しかし確かな差だった。
クロサワが降りてきた。涼の方を見た。しばらく何も言わなかった。
「FFで、GT-Rに勝った奴」少し間があった。「オレは初めて見た」
「運がよかっただけです」
「運じゃないよ」クロサワは首を振った。「アテーサETSを、当てテーサ...ふ、いや、忘れてくれ。」
「??」
「絶対的パワー。」短く言った。「それをお前は腕だけで越したんだ。誇っていい」
涼は何も言わなかった。
「一個だけ聞いていいか」
「どうぞ」
「何を追いかけてる」とクロサワは言った。「速さを追いかけてる奴の目じゃないね。何か別のものを見てる目だ」
涼は少し考えた。
「黒いFitです」
クロサワは眉を動かさなかった。ただ、少しだけ遠くを見た。
「……あれか」
「知ってるんですか」
「知ってる、というか」クロサワは空を見上げた。「見たことがある。一度だけ。……お前、本気でそれを追うのか」
「追います」
クロサワはしばらく黙っていた。やがてキーを取り出しながら言った。
「ならもっと速くなれヨ。今日の走りじゃ、まだ話にならない」
「それは、褒めてないですよね」
「褒めてる部分もあるヨ」クロサワはドアを開けた。「ただ、忘れるなよ...車のキャパを超えた部分は、ドライバーが受け止めなきゃならないんだ」
GT-Rのエンジンがかかった。
涼はその音を聞きながら、さっきの走りを頭の中で反復し始めていた。十三コーナー目の、あのタイヤの鳴き方。もう少し奥まで入れた気がした。あと一メートル、ブレーキを遅らせられた気がした。
勝った夜だったが、足りない部分しか見えなかった。
それでいい、と思った。
足りない部分が見える間は、まだ速くなれる。




