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アンジェリカが国王陛下に呼び出されたのは、ヘンリックたちがガリアス帝国に向かった二日後だった。ヘンリックとの会話を国王に話すと「そうか」と反応は薄かった。
彼がエステルの件を了承したのだから、当然だろう。
「それで、お前はどうする気なのだ」
ペドロ国王は静かな瞳でアンジェリカを見つめてくる。彼の顔に刻まれた深い皺は、老いによるものだけではない。これまで数々の苦悩を抱き、修羅場をくぐってきた、小国の長の戦歴が刻まれた証に思われた。
「私は……私はそれでも婚約破棄はしたくありません」
それはこの数日間悩んで出した結論だった。自分の人生を捨ててでも、家族を捨てることは出来ない。そう決断した。
ペドロ国王は視線を暫く宙に彷徨わせていた。
「アンジェリカよ。やはり婚約は破棄してくれないか」
その提案は予想外だった。そもそもこの婚約は国王によって強く望まれたもの。それを何故、破棄してくれというのだろうか。
しかしその後国王に提示された案は、もっとアンジェリカの予想に反するものだった。
「婚約破棄はして欲しいが、お前を王宮から出すわけにはいかない。だから……」
◆
ヘンリックが国を発ってから一か月が過ぎようとしていた。
勿論、アンジェリカは二か国語を喋れるようになっていない。ペドロ国王の要求を受け入れたため、そんな必要が無くなったからだ。
とはいえアンジェリカは内心で怯えていた。
帰って来たヘンリックに、どんな嫌味を言われるか、もしかしたら怒鳴られるかも知れない。
不安を抱えて彼らの帰りを待っていた。
ところが帰国の予定日を過ぎてもヘンリックたちは帰ってこない。
ようやく使節団たちが戻って来たのは、帰国予定日から更に一か月程経ってのことだった。
緊張が急速に高まる。今すぐにでもヘンリックから部屋の扉をノックされ、怒鳴られるのではと、マイナスの思考が頭をぐるぐる回っていた。
ノックの音。
恐る恐る、ドアを開ける。
ヘンリックの姿はなかった。
立っていたのは侍女のマデラだ。
ホッとしたのも束の間。マデラの顔色が青い。
「アンジェリカ様、落ち着いてお聞きください」
声が震えている。
もたらされた情報に思わず耳を疑った。
ヘンリック、並びにエステルは、まだゼーレに戻っていなかった。
いや、まだというのはおかしい。何故なら彼らが再びゼーレに戻ることは、一生なかったのだから。
◆
ガリアス帝国とゼーレは別の国であり、それぞれの文化圏を持つ。そして当然のことながら常識が異なっている。
例えばゼーレでは人と話す時、極力目を合わせようと努めるが、ガリアスではずっと目を合わせていると失礼にあたる。またゼーレでは異性にスキンシップをとっても、それがエスコートや手助けの範囲なら許されるが、ガリアスでは御法度である。
ヘンリックもそういった知識は持っていたはずだが、酒に酔っていたのか気が抜けていたのか、常識を逸した行動を幾つも犯しそうになり、その度に同行した使者から止められたらしい。
エステルはエステルで、語学の習得はしているが、ガリアス帝国の人間と喋ったことは多くなかった。そのため細かいニュアンスを把握しているわけでもなく、アンジェリカのように流ちょうなわけでもない。
自然と帝国側の要人は、前回まで来ていたアンジェリカとエステルを比べてしまっていた。
それだけだったならば、彼らは呆れられ、失笑されるだけで国に帰る事が出来ただろう。
ヘンリックはガリアス帝国皇帝陛下から、「今回、君の婚約者は来ていないのか」と問われた。
その時彼は場を和ませようと、こういうジョークを言った。
「婚約者の話をする前に、お礼を言わねばなりません。今回も我々のために帝国宮殿の豪華絢爛なお部屋の数々を、宿泊場所として提供して頂き、ありがとうございます。特に浴槽が広くて驚きました。もっと驚いたのは、広すぎて、中にワニが生息していたということです。そう、私の婚約者はワニに食べられてしまったのです」
エステルがその通り通訳した瞬間、まだ愛想笑いを浮かべていたガリアス帝国の要人たちの顔が、一気に強張った。
皇帝は凄まじい形相でヘンリックを睨みつける。
ヘンリックは状況が理解出来ず、愛想笑いを浮かべることしか出来ない。
「こいつらを捕らえろ。牢に入れておけ」
皇帝は怒りをどうにか押し殺した声で言った。
こうして二人は捕縛され、地下牢に幽閉された。その他に訪れていた使者たちも一旦拘束されたため、帰りが遅れたのだった。
一体、何がそんなに皇帝を怒らせたのか。
実は最近、皇帝の息子の一人が、ワニに襲われて死んだのだ。現在ワニに関する話題は陛下の前では御法度であり、何があっても絶対口にしてはならなかった。
それをヘンリックは、あろうことかジョークとして「ワニに食い殺された」という表現を使ってしまった。
皇帝からすれば「馬鹿にされた」と同時に「息子の死を侮辱された」のだ。それ故に、他国の王族に対してここまで強硬な態度を取った。
エステルは事前に帝国側の通訳から「絶対にワニの話は止めて下さい」と止められていた。
しかし、それが何故なのか理由は伝えられなかった(帝国側は皇子の死因を明らかにしたくなかったらしい)こともあり、また、彼女は初めての大舞台で色々とてんぱっていたらしい。
「その通訳の人物にのみ、ワニの話をしなければ問題ない」と誤認してしまったのだ。
◆
アンジェリカは再びペドロ国王と対面していた。彼は息子のやらかしの件で帝国に赴いた直後であり、かなり疲れ果てた顔をしていた。
そこで「実は……」と口にされたのは、彼女の能力に関することだった。
国王がアンジェリカを第一王子の妃にしようとしたのは、何も流ちょうなガリアス語を喋れるからだけではない。相手の意をくみ取る能力に長け、咄嗟の判断力も持ち合わせていたからだ。
それはペドロ国王が実際に彼女を目の前で、ガリアス帝国の人物と会話させて気付いたことだった。「この娘ならばうちのバカ(ヘンリック)のフォローを出来るかも知れない」と考えた。
ペドロの見る目は確かだった。アンジェリカは毎日帝国から取り寄せた新聞を隅々まで読み、行く際は入念な下調べを行った。帝国では通訳の無い場面でも、積極的に要人と会話し、情報を仕入れ、交流を深めていた。
彼女の聡明さはガリアス帝国でも一目置かれていたのだ。
要人に気に入られていたのは、実はヘンリックではなく、アンジェリカの方だった。
しかしヘンリックはそんなことなど知らなかった。最初は彼なりに準備をして行っていたものの、次第にアンジェリカ任せになっていく。
ヘンリックはすっかり彼女の能力に慣れてしまい、それが普通なのだと勘違いしていた。
一方でアンジェリカも、ヘンリックから否定され続けたせいで、自分の能力の高さを認識出来なくなっていた。このくらい出来て普通と考えていたのだ。
これまでヘンリックが外交で成果を上げたことがあるのは事実だ。しかしその成果の殆どは、アンジェリカの支えがなければ成し遂げられなかったものばかりである。
彼女はヘンリックがおかしなことを言ったら、咄嗟に当たり障りのない言葉に変換して伝えていたし、ヘンリックが失礼な態度を取りそうになったら、彼を呼んで、さり気なく注意を逸らすこともした。
最早ヘンリックとガリアスの要人が会話しているのではなく、アンジェリカがガリアス帝国の要人と会話しているような状態になることも珍しくなかった。
しかしずっとアンジェリカに通訳をして貰い続けていたヘンリックは、自分が有能であり、外交成果は全て自分だけの能力で勝ち取ったものだと増長し続けた。
結果、面白くもない趣味の悪いジョークで、文字通り己の首を絞めることになったのだ。
ペドロ国王は、失態を知るや否や、直ちに帝国へ赴き、直接謝罪を行った。
その上で「うちの息子はそちらの好きに処分して欲しい」と皇帝に伝えた。
それくらいしなければ今回の件は許されないと国王は思ったのだろう。
ガリアス帝国皇帝の方は、ペドロ国王の真摯に謝る姿に、これ以上怒りの矛先を、ゼーレ国に向けることを思いとどまったようだ。
「国王陛下、あなたはまるで、ヘンリック様が失態を犯すことを分かっていらっしゃったかのようではありませんか。どうして彼とエステルを行かせたのです」
アンジェリカは話を聞きながら、ずっと疑問に思っていたことを尋ねてみた。
ペドロ国王は静かに目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「ヘンリックはワシの実子。だからこれまで多少のことは我慢し、温情をかけてきた。だがアンジェリカよ。お前を切り捨てた時点であいつの運命は決まっていた」
ペドロ国王はこの国の大局を見極めている。その彼にとって、大切なのは実子よりアンジェリカの方だった。
そして、無能な第一王子にこのまま王位を継がせれば何れ問題を起こすことは明白。
その時に起こす問題の大きさは、恐らく今回の比ではない。国の命運に直結する。
だからこそ、今回ペドロ国王はヘンリックを切り捨てる選択をした。
ちょうどヘンリックがアンジェリカを切り捨てようとしたように。
「お前には代わりが居る」と彼はアンジェリカに言ったが、実は替えが利くのは自分の方だったということだ。
国王は元から、何らかの理由を付けてヘンリックの王位継承権をはく奪するつもりだったのだ。
誤算だったのは一発目からあまりにも大きなミスをしてくれたことだった。




