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アンジェリカたちが住むゼーレ国は二つの大国に挟まれている。
一つは東側のアナトール。そしてもう一つが西のガリアス帝国だった。歴史上、ゼーレはどちらの領土であったこともあり、多様な文化が入り混じったエキゾチックな国だ。
今は緩衝地帯として機能することで、何とか独立を保っている。
しかしそれはつまり、一歩間違えば強国から侵略の憂き目に遭うということだ。幸い、この100年近くは戦火に巻き込まれていないが、それは歴代国王や為政者たちが大国との関係に腐心し、細心の注意を払ってきたからに他ならない。
アイゼン侯爵家の長女として生まれたアンジェリカの幼少期は、少し特殊だった。
生まれてから6歳まで、彼女は母の実家があるガリアス帝国で過ごした。そのため流ちょうなガリアス語を喋ることが出来る。
その後、東の大国アナトールの言葉も話せるようになったので、彼女はトライリンガルだった。
アンジェリカの能力は、現国王であるペドロの目に留まった。彼は優秀だが冷酷で、側近でもミスをすれば容赦なく切り捨てる、苛烈な性格をしていると有名だった。
初めて国王に謁見する際はかなり緊張したアンジェリカだが、国王が彼女に話しかける態度は予想に反して優し気で、まだ子供だった彼女を気遣う姿勢を見せてくれた。
国王はアンジェリカのような人材を求めていたらしく、直ぐに第一王子ヘンリックとの婚約が決定された。
そして国王の指名で、ヘンリックがガリアス帝国に外遊する際の通訳も任されるようになり、彼女の住居は結婚前から王宮の別邸に移されることとなった。
婚約に当たり、一応アンジェリカの意志は確認されたが、そんなもの、あってないようなものだった。
アイゼン侯爵家は貧乏だ。
侯爵領は広大だが、作物の育たない不毛の地が多い。領地経営費は税収だけでは賄いきれなかった。
そのため元から侯爵家は、王家に資金援助を受けていた。もし打ち切られれば侯爵家はあっという間に破滅する。
王家には頭が上がらないのだ。
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だからこそ、王家の支援を受け続けるためにも婚約破棄をされるわけにはいかなかった。アンジェリカが婚約することになってから、王家からの支援金は増えた。
父はようやく、領地の開拓に資金を振り向けることが出来るようになったと言っていたし、妹が結婚するための持参金も貯まったという。
支援金が滞れば、侯爵家は再び困窮するかもしれない。
だが婚約破棄を受け入れなかった場合、アンジェリカ自身に悲惨な運命が待っている。
ヘンリックが提示したのはアンジェリカを正妃としてではなく、第二妃として受け入れるというものだった。
最初に婚約しておきながら、後から来たエステルに正妃の座を奪われ、尚且つ王宮で暮らすというのは生き恥以外の何物でもない。それが一生続くのだ。
そして今の関係性のままならば、ヘンリックは決してアンジェリカに愛を振り向けることは無いだろう。まさに籠の中の鳥だ。
飛ぶこともなく、やがて飛び方を忘れて惨めに朽ちていく人生。
婚約破棄をするしないを今すぐ選べと言われても、アンジェリカは返答に窮した。様々な思考が綯い交ぜになって、浮かんでは消える。
泣き出したかったが、この二人に泣き顔を見せるのが悔しくて、アンジェリカは必死に耐えていた。
「兄上、何をしている」
その声にアンジェリカは顔を上げた。コンラート第二王子のものだった。彼は吊り目のヘンリックと比べると、随分優し気な顔をしている。だが今は口を引き結び、兄を睨んでいた。
コンラートはアンジェリカを庇ってくれる唯一の人と言って良い。ただ彼も多忙の身であり、顔を会わせるのは久しぶりだ。
ヘンリックは邪魔が入ったとばかりに舌打ちする。コンラートには目を合わせようともしない。
「おい、アンジェリカ」
「は、はい」
「俺がガリアス帝国に行って帰るまでにあと二か国語を覚えろ。そうすればお前を正妃として認めることを考えてやっても良い」
あまりにも無茶苦茶な要求だった。
ヘンリックが使節団を引き連れ、隣国、ガリアス帝国への外遊に向けて出国するのは3日後。
そして行って帰るまでは恐らく1か月程度しか猶予が無い。その間に、あと二か国の言葉を覚えろというのは無理な要求だ。彼は最初から、アンジェリカを正妃にする気など無いのである。
いや、それよりも。
「ガリアス帝国には、いつも通り私も同行する予定ではありませんでしたか?」
「お前は馬鹿か」
アンジェリカをを突き放すように言う。
「何故俺がこのタイミングで婚約破棄の話をしたと思っている。お前の代わりにエステルを同行させるためだ」
「兄上、そんなことを父上がお許しになるとでも」
「既にこの事は父上に報告している。そしてエステルを代わりに連れて行く許可を得た」
ヘンリックは弟の言葉を遮り、勝ち誇ったように言った。
「父上が……?」
コンラートは納得できないのか、首を傾げている。
アンジェリカは肩を落とした。彼女はこの外遊のため、時間をかけて準備を進めてきた。アンジェリカにとって、通訳をする事は存在意義だった。それが突然奪われることになったのだ。
国王陛下から任されたこともあり、彼女はいつも時間的、精神的エネルギーの全てをこの仕事に振り向けてきた。
通訳を任されている以上、アンジェリカのミス一つで外交問題に発展しかねないからだ。それ即ち、小国であるゼーレの存亡の危機に繋がっている。
断崖絶壁で綱渡りをしているような精神状態だった。
幸いこれまで、大きなミスをしたことは一度も無い。そもそもヘンリックが行っているのは大抵の場合は親善訪問で、今回もそうだ。
私がいなければ、とアンジェリカは反論したくなる半面、それは本当に自分でなければならないのか? という気持ちも強く湧いてくる。
何故なら、今彼の隣に居るのは才女エステル。
彼女であれば、アンジェリカが下調べに掛かっている時間の半分以下で、帝国の事情を把握してしまうのだろうし、通訳も優秀にこなせるのだろう。
何より国王陛下の許しが出たということは、ヘンリックの言う通り、自分は陛下からも切り捨てられた存在だということか。
アンジェリカは急速に身体から力が抜けていくのを感じた。
それにヘンリックは、ガリアス帝国の要人に気に入られている面もあり、よく招待を受ける。有益な貿易協定が結ばれることもあり、それは彼の外交成果といえた。
ヘンリックの隣に立つべき人物として、自分は相応しくないのかもしれない。
「じゃあな、アンジェリカ。俺がガリアス帝国から帰ってくるまでの間に、身の振り方をしっかり考えておけよ」
そう言って二人は去って行った。その後でコンラートが声を掛けてくれた。
「うちの兄が、本当にすまない」
「いいえ。コンラート様が庇ってくれるだけで嬉しいのです」
実際あの時コンラートが来てくれなかったら、彼女はあの場で泣いてしまっていただろう。とはいえ今の状況は最悪だった。
明るい将来など、どこにもありそうになかった。




