反撃
昼下がりの静かな部屋に、不意に低い振動が走った。
机の上の魔導通信機―水晶球の奥で青白い光が揺らぎ、波紋のような揺れが広がっていく。
知らない番号からの着信だった。
エリスは資料の束を放り出し、心臓が高鳴るのを抑えながら手を伸ばした。
慎重に受話器を持ち上げると、次の瞬間、耳に届いたのは忘れようのない声だった。
「……エリス」
「……ルイ!?」
エリスの心臓が大きく跳ねた。
「あなた、どこにいるの? それより……無事なの?」
『どうにか、な。危ない場面はあったが……まだ生きてる』
「良かった……本当に……良かった」
胸の奥の緊張が一気に解け、声は消え入りそうに細くなる。
「心配をかけた」
「いいのよ。あなたが悪いんじゃない。私は……絶対に無実を証明してみせる。アルベルトも協力してくれてるの。だから……だから投降して!」
「アルベルトが……そうか。それは心強いな」
「そうよ、絶対に大丈夫。お願いだから、もうこれ以上危険な真似はしないで」
しばしの沈黙。水晶球の光が不安定に揺れる。
「……ありがとう。でも、それはできない」
「なぜ!」
思わず声が震えた。
「俺には“誓い”がある。それに、敵がどれほどなのか分からない。お前やアルベルトにまで迷惑をかけるわけにはいかない」
「今さら何言ってんの!」
エリスは机を叩いた。
「今までもさんざん迷惑かけられてきたわよ! それでも一緒にやってきたでしょ! こんな時に“誓い”とか“迷惑”とか……寝言言ってんじゃないわよ、バカ!」
受話器の向こうで小さく笑う声がした。
「相変わらずキツイな……でも、その通りだな」
短い間を置き、ルイの声が低くなる。
「一度、二人で話をしたい。ヘルミナさんに訓練してもらった、あのヘリンポスの山小屋を覚えてるか?」
「忘れるわけないでしょ」
エリスは息を荒げながらも即答した。
「分かった……行くわ」
「……ありがとう。気をつけて来い」
通信はそこで途切れ、水晶球はただの無色透明に戻った。
静寂が戻った部屋で、エリスは受話器を強く握りしめたまま動けなかった。
ーーヘリンポス山
ヘリンポスの山は夜の帳に沈み、森はしんと静まり返っていた。
遠くで梟の声が響くほかは、風に揺れる枝の音すらない。
その闇の中、小屋の窓から漏れる小さな灯りを目にして、エリスは足を止めた。
かつて訓練で幾度も泊まった木造の小屋。今は瓦も欠け、壁板も黒ずんでいる。
だが、この小屋に辿り着くまでの汗と泥、泣き声と怒声の記憶が鮮明によみがえる。
胸の奥がひどく締めつけられた。
扉を押し開けると、蝋燭の明かりがふっと揺れ、埃の漂う空間に一人の影が腰掛けていた。
「……ルイ」
その男は、ゆっくり顔を上げ、緩やかに笑った。
「よぉ。ちゃんと来たか。……小屋はまだ崩れてなかったな。昔のままだ」
「あなた……今はそんなこと言ってる場合じゃない!」
エリスは思わず詰め寄った。
緊張と怒り、安堵の入り混じった声が、古びた梁に響く。
「少し落ち着けよ。……コーヒーでも飲まないか?」
ルイはのんびりとした調子で立ち上がり、埃を払いながら携帯用の器具を取り出した。
湯を沸かす音が静かな小屋に広がり、やがて焙煎豆の香ばしい香りが漂い出す。
エリスは呆れ果て、肩を落とした。
「……本当に、あなたって人は」
それでも差し出されたカップを受け取り、半ば諦めるように椅子へ腰を下ろした。
熱い湯気が指先を温め、少しだけ張り詰めた胸が緩む。
「昔、ヘルミナさんの訓練を受けてた時は、“なんでこんな事を”って思ったけど……意外と役に立つもんだな」
ルイはコーヒーを啜りながら、何気ない調子で呟く。
「母さんは訓練では鬼だったからね。あなた達は、えらくしごかれてたわ」
エリスの脳裏に、真夏の山中で汗まみれになりながら走らされた日々が蘇る。
「ああ。偵察訓練で捕まったときのヘルミナさんの顔は……今でも忘れられない」
ルイは苦笑しながらも、どこか楽しげだった。
その軽さに、エリスの胸は逆にざわつく。
「……なにか作戦はあるの? それに、“誓い”って何なの?」
カップを机に置き、エリスは急に切り出した。
ルイの表情がわずかに引き締まる。
「あるさ。……多分、もうすぐかかるはずだ」
「かかるって……?」
エリスが言い終える前に、遠くで破裂音が木霊した。
夜の闇を切り裂くその音に、二人の身体が硬直する。
「……かかったみたいだな」
ルイは口の端を吊り上げ、意地の悪い笑みを浮かべた。
その顔を見て、エリスは悟った。
「……あなた、私を餌にしたのね!」
驚愕よりも怒りが勝ち、頬が赤く染まる。
「許さない……さんざん心配させておいて!」
怒りに震えながら剣を抜き、今にもルイへ斬りかかろうとする。
「ちょ、ちょっと待て! 敵が来てるんだ!」
ルイが慌てて手を振る。
エリスは剣先を突きつけ、声を低く絞り出した。
「……終わったら、覚えてなさいよ」
その刹那、外の森に不気味な気配が満ちていった。
夜の森に、不自然な静寂が広がっていた。
外の風が止み、代わりに草を踏みしめる重い足音が近づいてくる。
「……来たな」
ルイが低く呟く。
直後、窓の外で閃光が炸裂し、十数人の影が木々の間から飛び出してきた。
赤い瞳、獣じみた耳、黒い紋様が浮かぶ肌――その姿に、エリスは凍りついた。
「まさか……魔族……!?」
「何が釣れるかとおもったら、これはまた……」
ルイも眉をひそめたが、すぐに罠の紐を握り直す。
怒号とともに、魔族たちが突進してきた。
魔族たちが怒号とともに押し寄せ、山小屋を取り囲んだ。
扉が破られると同時に、エリスは剣を抜き放つ。
闇を切り裂く鋼の光。
一人目の魔族が振り下ろした爪を、エリスは受け流して逆袈裟に斬り裂いた。
血飛沫が散り、獣のような悲鳴が夜に響く。
二人目が背後から迫る。
エリスは振り返りざまに剣を薙ぎ払い、敵の喉を断ち切った。
「はぁっ!」
鋭い気合とともに、敵の体が崩れ落ちる。
三匹目が獣のように飛びかかる。
エリスは床を蹴り、剣を逆手に突き上げて迎え撃つ。
魔族が絶叫とともに崩れ落ち、木の床板が赤く濡れた。
荒い息を吐き、エリスは一瞬周囲を見渡す。
「……狭すぎる」
狭い小屋では剣を大きく振るえない。仲間を庇いながら戦うには、外の方が向いていた。
「ルイ! 中は任せるわ!」
叫ぶや否や、エリスは躊躇なく扉を蹴り開け、夜の森へ飛び出した。
―外にはさらに数体の魔族が待ち構えていた。
「よし……まとめて相手してやる!」
彼女は月光を浴びて剣を構え直し、獣じみた咆哮を上げる敵に突っ込んだ。
その背を見送り、ルイは小屋の中で紐を手繰った。
「さて、こっちは俺の出番だ」
紐を引くと、木の枝に隠された小瓶が落下し、爆ぜる。
閃光が夜を裂き、外の魔族が呻き声を上げた。
エリスは小屋の外で剣を振るい続けていた。
「そこっ!」
月光を反射する剣が閃き、魔族の肩を裂く。
続けざまに振り下ろすと、血と火花が散り、敵は呻き声を上げて倒れ込む。
しかし数は減らない。次から次へと押し寄せてくる。
荒い息を吐きながら、エリスは一瞬だけ小屋を振り返った。
窓越しに、ルイが冷静に外を見据えている。
「……悪いが、そっちは任せたぞ」
彼の手が紐を引くと、外の斜面に仕掛けた石が転がり、敵の足をすくった。
魔族が体勢を崩し、エリスの剣がその隙を正確に突き抜ける。
「助かる!」
短く叫び、再び敵の群れへと斬り込んだ。
一方、小屋の中。
ルイは罠を操りながらも、視線を絶えず外に向けていた。
「よし……今だ」
紐を引くと、木の枝に隠された小瓶が落下し、爆ぜる。
閃光が夜を裂き、外の魔族が呻き声を上げた。
その時―
背後で窓が砕ける音。
黒衣の男が影のように小屋へ突入してきた。
「っ……!」
ルイは咄嗟に椅子を投げつけ、間合いを取る。
だが黒衣の男は無言のまま突進し、拳で机を粉砕した。
「派手に来るな……!」
ルイは床を蹴って転がり、隅に隠していた罠の板を起動させる。
床板が跳ね上がり、鉄棘が突き出す。
黒衣の男は素早く跳躍してかわし、逆にルイの頭上へ斬撃を落とした。
「ちっ!」
間一髪で後退するが、頬に浅い傷が走る。
蝋燭の火が揺れ、小屋の影が乱舞する。
外では、エリスが敵を斬り払いながら小屋の異変に気づいた。
「ルイ……!」
助けに行こうとした瞬間、背後から魔族の咆哮。
刹那、鋭い爪が彼女の背へと迫る。
「ー―しまっ……!」
死角からの一撃。避けきれない。
だがその瞬間、白刃が閃いた。
まるで闇を裂くような一閃が魔族を斬り伏せ、血が夜に飛び散る。
「……誰……?」
エリスは驚愕に目を見開いた。
そこに立つ人物の正体を確かめる間もなく、次の魔族が襲いかかってきた。
「くっ……!」
気を取り直し、剣を握り直して再び応戦する。
同じ頃、小屋の中。
ルイは黒衣の男と対峙していた。
「しぶといな……」
鋭い刃が閃き、ルイの頬を掠める。
狭い空間での格闘は不利だった。机は粉砕され、壁板は裂け、蝋燭の炎が乱れる。
「……っ!」
椅子を盾にして攻撃を逸らし、転がるように距離を取る。
黒衣の男は無言のまま追い詰めてくる。
ルイの視線は、部屋の隅――罠の仕掛けへと向けられていた。
「あと少し……こっちだ」
挑発するように机を蹴り飛ばし、自分を追わせる。
黒衣の男が踏み込んだ瞬間、ルイは仕込んでおいた紐を引いた。
―轟音。
天井に固定していた丸太が黒衣の男を目掛けて落下する。
重い衝撃に床が揺れ、埃が舞い上がる。
素早い身のこなしで丸太を交わすが、すべてはよけきれず腕をかすめ、黒衣の袖を裂いた。
布が裂けて露わになったのは、鋭く翼を広げた鷲の入れ墨。
「……っ」
呻き声をあげながらも、黒衣の男は身を翻し、窓から飛び去った。
ルイは荒い息を吐き、壁に背を預ける。
「……どうにか間に合ったか」
小屋の外では、まだ剣戟と怒号が続いていた。
しかし黒衣の男の影は、闇に溶けるように姿を消していた。




