ハンス教授
川からどうにか這い上がったルイは、全身が水と泥にまみれ、息も絶え絶えだった。
「……ごぼっ……はぁ、はぁ……」
濁流に呑まれた身体は鉛のように重く、肺はまだ痛みを訴えている。
ふらつきながら視線を巡らせると、遠くに瓦屋根が傾いた古い建物があった。
壁は所々崩れ、木の板も黒ずんでいる。長く使われていない倉庫のようだった。
ルイは泥で滑る靴を引きずりながらそこへ歩み寄る。
「……こんなボロでも、屋根があるだけマシか……」
軋む扉を押し開けると、乾いた埃の匂いが鼻をついた。
薄暗い内部には、朽ちかけた木箱と割れた瓶、蜘蛛の巣が広がっている。
人の気配はなく、物音ひとつない。
ルイは慎重に耳を澄まし、外の気配を確かめる。
憲兵の足音も、怒号も、ここまでは届いていない。
「……よし」
全身から一気に力が抜ける。
壁際に背を預け、その場に崩れ落ちる。
水気と泥で衣服は重く、体は冷え切って震えていた。
「……はぁ……俺、なんでこんな……」
言葉は途中で途切れ、瞼が落ちる。
泥と埃にまみれた床でもかまわなかった。
暗闇の中で、ただ川の音と自分の荒い呼吸だけが耳に残る。
やがてその呼吸も浅くなり、意識は重さに引きずられるように眠りへ落ちていった。
――まぶしい太陽の下、山岳の斜面を駆け上がる足音が響く。
まだ幼いルイは、泥だらけで必死に息を切らしながら岩場を登っていた。
「ルイ、アルバイト、遅れてるわ!」
振り返ったのは、短い髪を揺らす少女――エリスだった。
額に汗を滲ませながらも、真っ直ぐな瞳で小さな手を差し伸べる。
「早く来て! ほら、手を!」
「うぅ……もっと朝ご飯食べれば良かった」
弱音を吐きながらも、ルイはその手を握り返し、よろよろと立ち上がる。
その隣では青白い顔をしたアルベルトが歩いていた。
「どう考えても、僕には向いていない……」
さらに先を登っていたヘルミナが涼しい顔で振り返る。
「二人ともエリスを見習いなさい。男の子が情けないわよ」
「は……腹が減った……」
「山登りに男女は関係ないんじゃ……」
ヘルミナが呆れ顔で叫び、腰に手を当てる。
「ルイ、情けない顔をしないの!アルベルト、ぶつぶつ言わない!」
四人は汗と泥にまみれ、時に喧嘩をし、時に助け合いながら鍛錬を重ねていった。
冷たい川を泳ぎ、薪を担ぎ、弓矢や剣を握っては倒れるまで振るった。
だが、訓練のあとの握り飯の味は、なによりも温かかった。
――倉庫の闇の中で、ルイはうなされるように声を洩らした。
「……ヘルミナさん……エリス……アルベルト……」
夢と現実の境で、心臓を締めつけられるような痛みだけが残った。
―湿った埃の匂い。
ルイはゆっくりと瞼を開いた。倉庫の隙間から差し込む月明かりが、泥と乾いた血に汚れた手を照らす。
「……夢、か」
胸の奥を突き刺す痛みに、ルイは乱れた呼吸を整えた。
「……行くか」
拳を握る。
濡れ衣を晴らすためだけじゃない。
「誓いは守るよ、ヘルミナさん」
真相を突き止め、爆破事件の本当の犯人を暴くために。
ルイは頭をめぐらせた。アルベルトやエリスには頼れない。
「となるとあの人しかいないか……半分は賭けだな」
ハンス・オットー教授。士官学校時代の教官で、ルイに爆弾の全てを教えた人物。しかし、変わり者で学生に爆弾づくりまで教え、教官をクビになった。今では引退してひっそりと暮らしているが、ルイは事件の度、ハンスに協力を仰いでいた。
ーーハンス教授邸
ルイは、埃っぽい扉を押し開けた。
中に広がったのは、天井まで届く本棚に囲まれた奇妙な空間だった。
分厚い軍事書、化学式がびっしり書かれたノート、古びた巻物までが雑然と積み上げられている。
その中央、机に山積みになった本を背にして、白髪の男が静かに座っていた。
「……ハンス教授……」
男は眼鏡を押し上げ、まるで珍しい動物を見るかのように口を開いた。
「ほう……有名人のご登場だ。爆弾テロリストと呼ぶべきかな」
「俺は爆弾を解除する側です。爆発はさせませんよ」
「フン!爆弾の解除は一級品のクセに作成となると劣等生だったからなお前は」
「解除するには、作成者の気持ちを知らねばならぬ。作成者の気持ちを知るには、爆弾を作れなければならぬ……でしたよね」
「ワシの理論を破綻させるロクデナシだよお前は。それで、そのロクデナシがワシに何の用だ」
「……とりあえず食事をお願いできませんか?腹が減って死にそうなんです」
「協力すれば、共犯者だろう。何かワシに得があるんじゃ?」
「今回の事件、どんな爆弾が使われたか興味ありませんか?」
ハンスの少し悔しそうな表情が見えた。
(どうにか賭けには勝てたかな)
ルイに安堵の表情が浮かぶ。
「やっぱりお前はロクデナシだよ……妻に用意させる」
ルイは、とてつもない速さで食事を胃に流し込んだ。
「……んぐっ、んまっ……おく、さんのてりょーり、さいこーです!」
頬をパンパンにふくらませ、食べ物をこぼしながらも、ルイは満面の笑みを浮かべた。
「口に物を入れたまま喋るんじゃない!」
ハンスが机を叩く勢いで怒鳴る。
だがその横で、ハンスの妻は笑顔でその様子を眺めていた。
ひとしきり食べ終えた後、ハンスは口を開いた。
「で……何が望みだ」
はち切れそうなお腹で、苦しそうにしながらルイが答える。
「知恵を貸して下さい。あと、少し用意して頂きたいものがあります」
「今から何をするつもりなんだ」
「真相を突き止めます。でも、その前に釣りをしようと思います」
悪戯っ子のような顔でルイは笑った。
ルイの反撃が始まった。
ーーエリス自宅
エリスの部屋は、新聞の切り抜きと証拠資料の写しで埋め尽くされていた。
机の上だけでなく、床や棚にも資料が散らばり、整然としているはずの室内はまるで小さな戦場のようだ。
紙の隙間から洩れるインクの匂いが鼻を突き、窓の外から差し込む昼下がりの光が、積み上げられた資料にまだらな影を落としていた。
(この中に、必ず何かがあるはず……)
確信にも似た思いが、エリスの胸を焦がしていた。
眠ることも忘れ、ひたすらページをめくる手は震えている。それでも止まらなかった。
その時、部屋の静けさを破るように魔導通信器が鳴った。
水晶球の奥で光が波紋のように揺れ、部屋全体がかすかに震える。
アルベルトだ。受話器を握りしめ、耳に押し当てた。
アルベルトの心配そうな声が響く。
「エリス! 大丈夫なのかい? 休みを取ったって聞いたけど」
「大丈夫よ、心配してくれてありがとう」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「あなたも大変でしょ、アルベルト。」
「そうだね。事件の後処理、魔族や過激派への対応に追われてるよ」
「あなたも無理はしないでね」
「ああ、気をつけるよ。……それで、事件のこと、調べてるのかい?」
アルベルトの声は、いつになく真剣だった。
「憲兵隊に迷惑は掛けられないし。私は……ルイを信じてる」
エリスはきっぱりと答える。
「あなたはどうなの、アルベルト?」
受話器の向こうで短い沈黙。やがて、わずかに苦笑まじりの声が返ってくる。
「俺たちは士官学校百期生で訓練が厳しかったろ。みんなが辛くて自分の事しか考えられない中、ルイはいつも他人の心配ばっかりしてたよ」
「……ルイらしいわね」
「ああ。だから僕はルイを信じる。僕も出来る限り協力してみるよ。……エリスも、どうか無茶はしないでくれ」
その言葉を最後に、通話は切れた。
静けさが戻った部屋に、カチリと受話器を置く音が響く。
エリスの瞳には、揺るぎない炎が宿っていた。
深呼吸を一つすると、散らばった資料に再び手を伸ばす。
机の上に並ぶのは、あまりにも整然とした“証拠”だった。
見れば見るほど不自然なまでに形を揃えている。
「……揃いすぎてる」
呟きは低く重い。
爆発から二日も経たずに、犯人像は「ルイ」と断定されるほど証拠が出揃った。
本来なら、鑑定や調査に数週間はかかるはずだ。それなのに、誰かが背後で糸を引いているかのように、全てが異常な速さで積み重なっていた。
さらに、現場での証言に目を走らせる。
「ルイが黒衣の人物ともみ合っていた」というな供述。
だが――その“黒衣の人物”を実際に目撃した者は、一人としていなかった。
「混乱の中とはいえ、一件も無いなんて……」
紙を握る指に力がこもる。新聞紙がくしゃりと音を立て、端が裂けた。
エリスは低く呟いた。
「証拠は、最初から用意されていた……」
その瞬間、彼女の疑惑は確信へと変わった。
張り詰めた空気を切り裂くように、魔導通信器の呼び出し音が再び部屋に響き渡った。
青白い光が、まるで不気味に瞬くように水晶球を照らしていた。




