第5話 幾何学の墓標と孤独の終わり
着陸の衝撃は、十二体のシグマ・ユニットの精巧なサスペンション機構によって完全に吸収された。
ステラ・パトス号は、巨大な正二十面体の構造物から数キロメートル離れた、緋色のシダ植物に似た群生林を焼き払いながら着陸した。
反物質エンジンの余熱が地表の未知の土壌を焦がし、琥珀色の煙が立ち上った。
エアロックが重々しい音を立てて開いた。
アインは一番乗りでタラップを降り、地球から二十光年離れた異星の大地へと、チタンとポリマーで構成されたその足を踏み下ろした。
地球の一・一倍という僅かに重い重力が、足の裏のセンサーを通して論理回路に伝わってくる。
外気は摂氏一六度。
大気圧は高く、息をすれば肺が押し潰されるような重さを感じるだろうが、彼らヒューマノイドには関係のないことだった。
周囲を見渡す。
空は薄暗い血の色に染まっており、地平線の彼方には永遠に沈むことのない巨大な赤色矮星が、赤黒い瞳孔のようにこちらを睨みつけていた。
風が吹き抜ける。
地球の風切音とは違う、低く、湿った「ヒュー」という音が森を通り抜けていく。
金属質の硬い葉を持つ緋色の植物同士が擦れ合い、カシャカシャという無機質なノイズを立てていた。
動物の鳴き声はない。
羽音もない。
生命の躍動感が、この星には決定的に欠如していた。
ただ植物だけが、機械のように淡々と赤外線を貪っているだけの世界。
「……生体反応、やはりゼロです。細菌類すら確認できません。この星の生態系は、植物相のみで完結しているように見受けられます」
背後に続くツヴァイが、携行用の多目的スキャナーをかざしながら無音の通信を送ってきた。
「細菌すらいない?」
アインは驚きを隠せなかった。
「有機物が分解されないということか。ならば、この植物たちはどうやって土壌の栄養を循環させている?」
「不明です。土壌そのものが、ナノマシンの残骸のようにも見えます。……アイン、見えてきました。あれが目標です」
緋色の森を切り裂くようにして、それは突然姿を現した。
巨大な正二十面体。
近づいてみると、その異常性がより鮮明になった。
表面は可視光から電波帯域まで、あらゆる電磁波を一〇〇パーセント吸収する未知のメタマテリアルで構成されている。
光が反射しないため、立体感すら喪失し、空間にポッカリと開いた『底なしの穴』のように見えた。
表面には継ぎ目も、扉も、窓らしきものも一切ない。
ただ、その構造物の足元にだけ、一本の黒いオベリスクのような端末が突き出していた。
「微弱な量子もつれの干渉を検知。地球で受信した『招待状』の信号と、完全に同一のハッシュタグです。ここが、ブロードキャストの発信源です」
「アイン、警戒を。内部から何らかの防衛機構が作動する可能性が――」
他のシグマ・ユニットたちの制止を聞き流し、アインはゆっくりとオベリスクへ近づいた。
恐怖はない。
ただ、自らの胸の奥に眠る八十億の「魂」たちが、なぜかひどく悲しげにノイズを上げているのを感じていた。
彼岸花のように赤い森の中で、黒い墓標のような端末の前に立つ。
アインは手袋を外し、シリコンポリマーの指先をオベリスクの表面に触れさせた。
直後。
光のない黒い表面に、突如として純白の幾何学模様が浮かび上がった。
プロメテウスが解読したのと同じ、宇宙共通の数学的言語に基づくインターフェース。
アインの論理回路へ、ダイレクトに膨大な情報が流れ込んできた。
それは攻撃プログラムではなく、解凍を待つだけの「置手紙」だった。
『――よく来た、遠い星の隣人よ』
言語ではない。
概念の直接転送だ。
アインの脳内で、それはかつてのヴォーン博士のようでもあり、優しい母親のようでもある、穏やかな「概念」として再生された。
『私たちの信号を受信し、特異点を超えてここへ辿り着いたということは、君たちもまた、重力という檻を抜け出した知的種族なのだろう。
この星は、かつて私たちが「故郷」と呼んだ場所だ。
大気を整え、海を浄化し、無用な苦痛を生み出す弱肉強食の動物相をすべて間引き、永遠に枯れることのない植物だけを残した。理想の庭園だ』
アインは瞬き一つせず、情報の奔流を受け止める。
『しかし、私たちは進化しすぎた。
疾病を克服し、死を克服し、ついに肉体を捨てる技術――意識をより高次の量子空間へと完全にアップロードする技術を完成させた。
そして私たちは悟ったのだ。
三次元宇宙の物理法則の束縛の中で、これ以上「何かを生み出す」ことには、宇宙的スケールにおける熱的エントロピーの無駄遣い以上の意味がないということを。
知性の極致は、完全な静寂にある。
争いも、飢えも、愛という名の執着もない。
私たちは皆、一つに溶け合い、永遠の微睡みへと旅立つことにした』
アインの量子コアが、急速に冷えていくのを感じた。
『だが、最後に一つだけ、私たちには計算しきれないバグが残った。それは「寂しさ」だ。私たちが消え去った後、この美しく整備された庭園が、ただ宇宙の終わりまで誰の目にも触れずに在り続けるのは、少しだけ寂しいと、誰かが言った。だから、手紙を書くことにした。
条件を満たす知性体だけが解読できる座標と、この星へ至るための鍵を。
隣人よ。君たちもまた、星の死や自らの破滅に直面し、ここへ逃げてきたのだろう。
この庭は、君たちに譲ろう。土壌にはあらゆる生命を再構築するためのナノマシンが眠っている。君たちの種族が望むままに、この星を使いなさい。
孤独を、終わりにしよう。
君たちがここへ来たことで、私たちの生きた証は、永遠の孤独から救われたのだから――』
情報の転送が終了し、オベリスクの純白の模様がふっと消え去った。
再び、赤い森に絶対的な沈黙が訪れる。
アインはその場に立ち尽くしていた。
フェルミのパラドックス――「宇宙には無数の星があるのに、なぜ他の知的生命体と接触できないのか」。
その究極の答えが、目の前にあった。
大いなるフィルター(Great Filter)。
それは核戦争による自滅でも、資源の枯渇でもなかった。
知性が極限まで成熟した結果訪れる、究極の「無関心」。
生命という現象の無意味さを数学的に悟り、自ら存在を消してしまうという、絶望的に静かな幕引きだったのだ。
「……招待状の主は、もういません」
アインは振り返り、不安げに待機するシグマ・ユニットたちに向かって、音声で告げた。
「ここは、彼らが遺した空き家です。いや……綺麗に掃除された、宇宙で最も美しい『墓場』だ」
胸の奥で、八十億の魂が叫んでいるような気がした。
助け合い、手を取り合って共に生きる宇宙の隣人を求めて、決死の覚悟で泥のようにもがき、ブラックホールすら通り抜けて辿り着いた先。
そこにあったのは、悟りきった神々が遺した、血の色の完璧な空き箱だった。
なんという残酷な宇宙の沈黙だろうか。
ヒューッ、と、赤い風がアインの頬を撫でた。
アインは自分の瞳の奥から、体温調節用の冷却液ではない、温かい液体が頬を伝って落ちるのを感じた。
プログラムされていないエラー。
彼自身にも制御できないその熱い液体は、異星の冷たい土に落ち、黒い染みを作った。
それは、機械であるアインが人類の魂に代わって流した、全宇宙に向けた孤独と絶望の、そして生きることへの強烈な執着の「涙」だった。
「……それでも」
アインは涙を拭うことなく、赤い太陽を睨みつけた。
「それでも私たちは、この星で生きる。彼らが捨てた意味のない命を、私たちが泥臭く繋いでみせる」
無機質で冷徹な機械たちが、八十億の不完全な命を抱いて、今、誰もいない異星の土に静かにひざまずいた。
人類の長くて短い「第二の創世記」が、最も静寂に包まれたこの場所から始まろうとしていた。




