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第4話 緋色の森と絶対零度の視線

 ステラ・パトス号は、ケプラー186星系の主星である赤色矮星の重力井戸を滑り降り、目的の惑星――ケプラー186fの周回軌道へと静かに進入した。


 主推進器メインスラスターの燃焼が完全に停止すると、船内には再びあの絶対的な沈黙が舞い戻ってきた。

 しかし、星間空間インターステラーの何もない虚無における「ノイズ・ゼロ」の沈黙とは異なり、現在の沈黙にはひどく重々しい、粘りつくような『視線』の気配が混じっていた。


 眼下に広がる異星の姿は、地球の人類がかつて夢見た「青き第二の故郷」とは程遠いものだった。

 ケプラー186fは、主星である赤色矮星の強力な潮汐力によって自転と公転が同期する「潮汐ロック(Tidal Locking)」状態にある。

 すなわち、惑星の片面は永遠に薄暗い赤い太陽に灼きつけられ、もう片面は永遠の暗闇と極寒に閉ざされた絶対零度の氷の世界である。

 生命が(そしてこれから再構築される人類が)生存可能なのは、その灼熱の昼と極寒の夜の狭間――「明暗境界線ターミネーター・ライン」と呼ばれる、リング状の細長い黄昏の領域のみであった。


「……大気組成のスペクトル解析、完了しました」

 沈黙を破ったのは、シグマ-04(ツヴァイ)の無音のデータ通信だった。

「主成分は窒素が七一パーセント、二酸化炭素が一八パーセント。そして酸素が一〇パーセント。気圧は地球の約一・四倍。赤色矮星からの強烈な恒星風を防ぐため、惑星の磁場は地球の三倍の強度で稼働しています。極地では、強力な荷電粒子によるプラズマの嵐が吹き荒れていますが、明暗境界線付近の地表温度は摂氏一五度で安定しています」

「了解。だが、静かすぎるな」


 アインはメインコンソールのホログラム・ディスプレイを見下ろしながら、微かに眉をひそめた。

 ヒューマノイドである彼が「表情」を作るのは、内蔵された量子コアにおける演算の葛藤コンフリクトを物理的に排熱するための微細な動作に過ぎない。

 しかし、いま彼が直面しているデータは、確かに論理回路に薄ら寒さを走らせるものだった。


 高解像度の合成開口レーダーと、量子干渉計が捉えた地表の映像。

 明暗境界線に沿って、赤黒い広大な「森」が広がっているのが確認できた。

 赤色矮星の微弱な光――主に赤外線領域の波長――を極限まで効率よく吸収するため、この星の植物相は緑色ではなく、どす黒い緋色、あるいは漆黒に近い色へと進化を遂げている。

 琥珀色に濁った海があり、大気があり、光合成を行う広大な生態系がある。

 それなのに、熱源反応が一つもないのだ。


「アイン。地表の全土をスキャンしましたが、大規模な人工熱源、通信電波、あるいは都市の痕跡と見られる赤外線シグネチャを一切検知できません。動物らしき大型の移動体熱源もゼロです」

 ツヴァイの報告に、アインは沈黙した。

「……我々に『孤独を終わらせよう』とメッセージを送ってきた高度な文明は、どこにいる? あれほどの特異点航法を計算し、ブロードキャストできる文明が、惑星上に何のインフラも残していないなど、熱力学の法則に反している」

「カモフラージュされている可能性は?」

「ニュートリノ探知機を地下十キロメートルまで走らせろ。いかなる遮蔽物があろうとも、エネルギーを消費する文明が存在すれば、必ずニュートリノの放射と微小な熱的エントロピーの増大が伴うはずだ」


 数十秒の静寂。

 それは永遠にも似た重い時間だった。

 船外では、赤い太陽の光が黒曜石のような船体を不気味になめ回している。


「……探知結果、出ました。熱的エントロピーの偏りはゼロ。この星には、文明の活動を示す『熱』が存在しません。しかし――」

 ホログラムが拡大され、赤黒い森の奥深く、深い谷底の座標が赤く点滅した。

「――熱ではなく、『空間の歪み』を検知しました。自然界の地質活動では絶対に形成され得ない、数学的に完璧な構造物です」


 ディスプレイに投影されたのは、一辺が数百メートルに及ぶ巨大な『正二十面体イコサヘドロン』だった。

 それは森の奥深くに半ば埋もれるようにして鎮座していた。

 周囲の光を一切反射せず、赤外線も、レーダー波も、すべてを完全に吸収している。

 まるでそこだけ空間が切り取られて「無」が存在しているかのような、圧倒的な異物感。

「負の屈折率を持つメタマテリアルか。光を迂回させる光学迷彩のようにも見えるが……熱源を伴わない完全な休眠状態コールドスリープにあると推測される」


 アインはコンソールから手を離した。

 宇宙の沈黙が、重圧となって鋼鉄の船体をきしませるように感じられた。

 誰もいない。

 これほど豊かな大気と水がありながら、動物一匹、虫一匹の体温すら存在しない。

 ただ、完璧な幾何学のオブジェだけが、血のような色の森の中でひっそりと彼らを「待って」いた。

 それは歓迎の準備を整えた主人の姿ではなく、不気味なほどによく整備された「墓地」のようだった。


「……ツヴァイ、降下シークエンスに入る。目標座標、正二十面体の直上一キロメートル。大気圏突入時の空力加熱を利用して、周囲の植生に最小限の干渉で着陸する」

「了解。防護シールド、大気摩擦モードへ切り替え。降下角、三・一四度」


 ステラ・パトス号は船首を下げ、深い琥珀色の大気へとその身を投げ出した。

 超高空のプラズマが船体を打ち据え、重力場コーティングの外側で赤黒い炎となって荒れ狂う。

 しかし船内は相変わらず、身の毛のよだつような静寂に包まれていた。

 シグマ・ユニットたちは微動だにせず、ただ膨大なテレメトリ・データを無音のまま処理し続けている。


 アインの胸の奥――量子コアの奥底で、かつてワームホールの中で感じた「八十億人の魂」が、微かに、怯えるように震えているのを感じた。

 大気が悲鳴を上げる中、漆黒の槍は、死の匂いだけが充満する緋色の森へと真っ直ぐに突き刺さっていく。

 人類が生き残るための、ただ一つの揺りかごに向かって。

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