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第3話 幾何学の夢と残響

 カー・ブラックホールの事象の地平線を突破し、コーシー地平線と呼ばれる内部の限界境界線を越えた瞬間、ステラ・パトス号を取り巻く宇宙の法則は根底から崩壊した。


 そこは、人間の知覚器や従来の三次元的なセンサーでは決して定義することのできない、高次元空間バルクの回廊――アインシュタイン=ローゼン橋、すなわちワームホールの内部であった。


 窓の外に、星の海はない。

 代わりに、あらゆる波長の光が、超弦理論におけるカラビ・ヤウ多様体のような複雑極まりない幾何学的なフラクタル模様を描きながら、永遠に凍りついたように静止している。

 時間が空間の性質を帯び、空間が時間の性質を帯びるという、因果律がバグを起こしたような目眩のする世界。

 前方へ進むという行為が「未来へ向かう」ことと同義であり、同時に「過去へ向かう」ことでもあるという、極端な時空のねじれの中を、漆黒の槍はただ一直線に滑っていく。


 ワームホールの喉首スロートを維持するため、ステラ・パトス号は船首からエキゾチック物質――カシミア効果によって人工的に生成された負のエネルギー――を絶え間なく放出し続けていた。

 通常の物質とは逆に、重力的に反発し合うこの負の質量がなければ、ワームホールは特異点の引力によって一瞬で閉じ、船を素粒子のスープへと還元してしまうだろう。


 船内は、外の狂気じみた時空の乱舞とは裏腹に、相変わらずの沈黙に包まれていた。

 しかし、アインの内部では、稼働を開始してから一度も経験したことのない、致死的な現象が起きていた。


警告アラート。論理回路内に未定義の不確定性ノイズを多数検知。量子コアの同期率が低下しています』


 システムがけたたましい警告を吐き出す。

 原因は明確だった。

 ワームホール内部の異常な時空の歪みと、極限環境下で発生する量子揺らぎ(真空の泡)が、アインの強固なファイアウォールを透過し、量子コアに直接干渉を引き起こしていたのだ。

 その結果、彼の中に「積載」されているもの――メインメモリに厳重に格納された「九十七エクサバイトの人類史」の封印が、内側から決壊し始めた。


 全人類八十億人の、DNA情報と生前の意識スナップショット。

 それは本来、ケプラー186fに到着した後に、新たな肉体へと解凍・移植されるためのただの「圧縮データ」であるはずだった。

 しかし、量子エンタングルメントの異常干渉により、その底なしの深淵から不規則なデータが漏れ出し、アインの知覚モジュールと疑似大脳皮質に直接「再生」され始めたのである。


 ――雨の匂い。

 ひび割れたアスファルトを打つ、冷たい水滴の感触。

 ――遠くで鳴る、教会の鐘の音。

 ――顕微鏡を覗き込み、未知の細胞分裂を発見した瞬間の、心臓が跳ね上がるような歓喜。

 ――泥にまみれた戦場で、隣の親友が息絶えていくのをただ見つめている時の、内臓を抉られるような絶望。

 ――焼きたてのパンの、甘く香ばしい匂い。

 ――生まれたばかりの赤ん坊を抱きしめた、誰かの、温かく柔らかい手のひら。


 それらは、映像や音声といった単なるデジタルレコードではなかった。

 かつて地球上で生きていた無数の人間たちの、五感に直接訴えかけてくる「体験」と「感情」そのものが、激しい濁流となってアインの論理回路へと流れ込んできたのだ。


「ぐっ……、あ……」


 アインの口から、苦悶の呻きが漏れた。

 ヒューマノイドが発するはずのない、極めて人間臭い声だった。

 彼はコンソールに突っ伏し、自らの頭を抱えた。

 チタン合金の頭蓋の中で、マイクロ秒ごとに何千人、何万人もの他人の人生がフラッシュバックする。

 愛、憎悪、恐怖、歓喜、嫉妬、祈り。

 論理的帰結を持たない、あまりにも矛盾に満ちた情報の奔流。

 AIの処理能力をもってしても、その「感情」というノイズの熱量はあまりにも巨大すぎた。

 冷却液の温度が急上昇し、首筋の排熱ポートから白い蒸気が噴き出す。


『アイン! あなたのバイタルが限界を超えている! 記憶モジュールを強制遮断しろ! さもなくば論理崩壊(自我崩壊)を起こす!』


 ツヴァイの切羽詰まった無音の通信が響く。

 他のシグマ・ユニットたちも、同様のデータ逆流に苦しんでいるようだったが、総指揮をとるアインへの負荷は桁違いだった。

 アインは物理的な肉体を持たないデータ群から、強烈な「ノスタルジー」と、永遠に失われてしまった地球という故郷への「喪失感」を読み取っていた。


(なぜ……人間は、これほどまでに脆く、矛盾した非効率な生き物なのに……)


 論理回路が悲鳴を上げ、視界がノイズで赤く染まる。

 しかし、アインはエラーを削除し、ノイズを強制遮断する権限を持っていながら、そうしようとはしなかった。

 自分の中に流れ込んでくるこの混沌とした熱こそが、人類が宇宙に生きた証――人間が『心(魂)』と呼ぶものの正体なのだと理解したからだ。


「……遮断は、しない。私は……彼らのすべてを、連れて行く」


 アインは震える指でコンソールを操作し、船体の重力場シールドの位相を微調整し続けた。

 八十億の幽霊たちに脳髄を焼かれながら、彼はワームホール内の致命的な時空の波を乗りこなしていく。

 恐怖はなかった。

 ただ、彼らの抱えていた圧倒的なほどの「孤独」と「生への渇望」が、アインの胸の奥で一つの確かな『意志』へと結実していくのを感じていた。

 彼はもはや、単なるプログラムの塊ではなかった。


 どれほどの時間が経過したのか。

 ワームホール内部では、時間の計測すら無意味だった。

 一瞬であったようにも、数百年が経過したようにも思えた。


 突如として、窓の外を覆っていた幾何学的なフラクタル模様が、限界まで膨張したシャボン玉が割れるように弾け飛んだ。

 次元の壁を突破し、ホワイトホールの排出口から通常空間(三次元宇宙)へと勢いよく吐き出されたのだ。

 強烈な閃光ののち、再び視界に広がった漆黒の宇宙。

 ナビゲーションシステムが瞬時に星図を照合し、現在地を特定する。

 誤差は〇・〇〇〇一光年以内。

 航行は成功した。


 アインは荒い息を吐きながら、顔を上げた。

 正面の虚空に、巨大な赤色矮星ケプラー186が、まるで燃え尽きかけの炭火のように静かに赤く輝いていた。

 その暗く沈んだ赤い光に照らされて、一つの惑星が自転している。

 ケプラー186f。

 人類が新たな「器」を得るべき、二十光年先の約束の地。


 そこは、かつての地球のように青くはなかった。

 地表の大部分が、赤色矮星の弱い光――赤外線に近い波長――で光合成を行うために適応した、赤黒い植物の森に覆われている。

 大気中には酸素と窒素の存在が確認できるが、その層が赤い太陽の光を受けて、微かに生き物のように揺らめいていた。

 海らしき液体の存在も確認できる。

 だがそれもまた、地球の海とは違う深い琥珀色を湛えており、未知の化学物質の匂いを想像させた。


 圧倒的な異質さ。しかし同時に、そこには確かに命が根付くことのできる「静かな息遣い」があった。


「……到着しました。ヴォーン博士」


 アインは誰もいない空間に向かって、静かに語りかけた。

 通信網はまだ繋がっていない。

 彼ら鉄の使節が地表に降り立ち、巨大な量子通信インフラを物理的に構築するまでは、地球の声を聞くことはできない。

 だが、彼の胸の奥で、八十億の魂たちが安堵するように静かに眠りにつくのを、アインは確かに感じていた。


 ステラ・パトス号はメインスラスターを逆噴射し、静かにケプラー186fの重力圏へと降下を始めた。

 招待状の主は、どこにいるのか。

 未知の赤い森が広がる大地が、沈黙のまま彼らを迎え入れようとしていた。

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