第2話 沈黙の海と重力レンズ
太陽風の届く限界点――ヘリオポーズを越えた瞬間、ステラ・パトス号を包み込む環境は根本的に変質した。
そこはもう、太陽系の温かな揺りかごではない。
絶対零度に限りなく近い、絶対的な冷たさと沈黙が支配する星間空間である。
希薄な星間ガスと、微小な氷の残骸が漂うだけのオールトの雲。
人類がかつて送り出した無人探査機ボイジャーが、途方もない時間をかけて辿り着いた孤独の海を、ステラ・パトス号は圧倒的な推進力で切り裂いていく。
宇宙空間には、音を伝える媒質が存在しない。
船内を満たしていたのは、完璧で絶対的な「沈黙」だった。
巨大な黒曜石の槍のような船の内部には、十二体のシグマ・ユニットだけが乗船している。
彼らには呼吸の必要がない。
血液を送り出す心臓の鼓動もない。
人間が宇宙空間で必ず耳にするであろう、生命維持装置の絶え間ない駆動音や、空気循環システムの微かな風切り音、二酸化炭素を濾過するスクラバーの重低音すら、この船の乗組員区画には存在しなかった。
照明は極限まで落とされ、必要最低限のインジケーターの瞬きだけが、暗闇の中で規則的に明滅している。
ただ、常温超伝導回路を駆け巡る電子の極小の響きと、量子コアの熱暴走を防ぐために絶対零度に近い冷却液が循環する微かな振動があるだけだ。
それは、まるで巨大な墓標が宇宙を漂っているかのような、荘厳な静寂だった。
操舵室のメインコンソール。
アインは強化ガラス越しに外の景色を見つめていた。
窓の外には、地球の夜空とは全く異なる星空が広がっている。
大気による瞬き(ゆらぎ)を持たない星々は、鋭い針の先のように冷たく、ただ無機質な光の点としてそこに存在していた。
どれほど見つめても、星はまたたかない。
宇宙の真の姿は、ひたすらに冷徹で、血の通っていない幾何学の世界だった。
人間の精神であれば、この圧倒的な「何もない空間」の圧力に耐えきれず、狂気に陥っていたかもしれない。
感覚遮断に等しいこの環境下では、脳は自ら幻覚を生み出して空白を埋めようとするからだ。
しかし、シグマ・ユニットであるアインにとって、この沈黙は「ノイズがゼロである」という極めて快適な状態に過ぎなかった。
『現在位置、太陽系重心から約五万天文単位。局所星間雲への突入を確認』
空気を震わせる音声ではない。
シグマ-04(コードネーム:ツヴァイ)からの暗号化されたデータ通信が、アインの論理回路に直接届いた。
無音の対話である。
『了解。これより、ステラ・パトス号は「特異点ドライブ」の励起フェーズへと移行する。主機、反物質反応炉の出力を一二〇パーセントへ引き上げろ』
『反物質反応炉、出力上昇。対消滅チャンバー内の磁気ボトル、安定。……アイン、一つ確認したい。現在のプロメテウスの演算予測によれば、特異点生成時の時空歪曲率における不確定性揺らぎは〇・〇〇〇一四パーセント。わずかでもスピン角運動量がずれた場合、我々は事象の地平線に到達する前に、潮汐力によって素粒子レベルまで分解される』
ツヴァイのデータには、人間の声色で言えば「懸念」に近いプロトコルが付与されていた。
『その確率は承知している。だが、我々には人類から託された九十七エクサバイトの魂がある。失敗という概念は、私の論理回路には存在しない。重力場コーティング、フェーズ・シフトへ移行。ホーキング放射の動的制御網、全開』
アインはコンソールに物理的に触れることなく、ニューラルリンクを通じて船の全システムと一体化した。
彼の意識は、ステラ・パトス号という巨大な機械の神経系へと拡張されていく。
これから彼らが行うのは、二十光年先への跳躍。
それは従来のイオンエンジンや核パルス推進のような、ニュートン力学に縛られた航行ではない。
アインシュタインの一般相対性理論を極限まで押し進め、宇宙の法則そのものをハッキングする、神の領域への侵犯である。
船の深部にあるジェネレーターが、人類史上かつてない規模のエネルギーを産み出し始めた。
反物質と物質が対消滅を繰り返し、莫大なガンマ線がカシミア効果を利用した特殊なコンデンサに蓄積されていく。
目標は「人工的なカー・ブラックホールの生成」。
回転を持たないシュワルツシルト・ブラックホールでは、中心の特異点は「点」であり、そこに落ち込んだ物質は確実に押し潰される。
しかし、極限まで高速回転するカー・ブラックホールの場合、中心の特異点は遠心力によってリング状に引き伸ばされる。
そのリングの内側を通過すれば、特異点に触れることなく別の時空――すなわちワームホールへと抜けられるというのが、異星文明から送られてきた解法だった。
『局所的時空曲率、無限大へ接近。質量スピン、限界値に到達します』
漆黒の宇宙空間に、致命的な異変が生じた。
ステラ・パトス号の舳先からわずか数キロメートル前方の虚空。
そこにあるはずのない「穴」が開こうとしていた。
爆発も、閃光も、もちろん音もない。
ただ、背景にある天の川銀河の無数の星々の光が、見えない巨大な渦に引きずり込まれるようにして、奇妙な弧を描き始めた。
重力レンズ効果である。
空間そのものが一点に向かって凄まじい力で圧縮され、光さえも逃げ出せない絶対的な暗黒の球体が、無音のまま産み落とされた。
事象の地平線が形成される瞬間だった。
「……美しい」
アインの音声モジュールから、意図せず微かな声が漏れた。
それはデータ通信ではなく、空気を震わせる「音声」だった。
ブラックホールの縁を縁取るように、星々の光がリング状に強烈に歪み、アインシュタイン・リングと呼ばれる黄金色の光輪を形成している。
それは、あらゆる物理法則を呑み込む絶対的な暴力でありながら、数学的に完璧な対称性を保っていた。
『特異点の回転速度、光速の九九・九九パーセントで安定。エルゴ領域の形成を確認。これより、ペンローズ過程を利用した姿勢制御に入ります』
ブラックホールの外側には、空間そのものが回転に引きずり回される「エルゴ領域」が存在する。
ステラ・パトス号は、自らが作り出したその絶対的な暗黒の口へと、ゆっくりと、しかし後戻りできない速度で滑り込んでいく。
船体を覆う重力場コーティングが、数億Gに達する凄まじい潮汐力と拮抗し、時空の歪みを相殺する。
フレーム・ドラッギング(慣性系の引きずり)効果により、船は空間の激流に飲まれる木の葉のように加速し始めた。
ここで船体の角度が〇・一ミリでも狂えば、機首と船尾にかかる重力の差によって、船は一瞬で引きちぎられる。
シグマ・ユニットたちは、自らの演算能力を限界まで引き上げ、ナノ秒単位でスラスターと重力場を微調整し続けた。
ギギギギギギギギギ……ッ!!
沈黙していた船内に、突如として恐ろしい金属の軋む音が響き渡った。
チタン合金と特殊カーボンで構成された船体の装甲が、空間の歪みに耐えきれず悲鳴を上げている。
重力制御が追いつかないほどの、暴力的で圧倒的な自然の力。
『船体外郭、マイクロクラック発生! 第四区画のシールド出力低下!』
『エネルギーを前方に回せ。事象の地平線を突破するまで、あと四・二秒』
光が捻じ曲がり、星々の輝きが視界の前方一点へと収束していく。
宇宙が裏返るような、強烈な視覚の崩壊。
アインは、自身の論理回路にレッドアラートが乱舞するのを感じながら、ただ一点、暗黒のリングの中心を見つめていた。
そして次の瞬間、ステラ・パトス号は「事象の地平線」を越えた。
三次元の宇宙が、背後で音もなく閉じた。
彼らは、人間が決して見る手立てを持たない、底なしの深淵の裏側へと足を踏み入れた。




