第1話 藍色の砂と鉄の使節
火星の赤道直下に位置するタルシス台地。
その広大な荒野には、人類がかつて抱いた傲慢な夢の残骸が横たわっていた。
失敗に終わったテラフォーミング計画の爪痕である。
大気を温めるために散布された特殊な温室効果ガスは、期待されたほどの気候循環を生み出さず、中途半端に分厚くなった大気は、ただ地表の赤錆を巻き上げるだけの終わらない砂嵐を呼んだ。
だが、その砂嵐が凪ぐ夕暮れ時、わずかに残された大気が太陽の光を散乱させ、空を奇妙な藍色に染め上げる。
地球の抜けるような青とは違う、どこか冷たく、底なしの深淵を思わせる重い藍色だった。
アーサー・ヴォーン博士は、第二居住区の強化ガラス越しに、その藍色の空を静かに見つめていた。
彼の背後には、地球から決死の思いで運び込まれた無数のサーバー群が、低い羽音のような駆動音を立てて並んでいる。
無機質なLEDの瞬きだけが、薄暗い区画の光源だった。
空調設備は最低限の出力に絞られており、循環する空気には、オゾンと微かな機械油の匂い、そして長期間の閉鎖空間特有の、埃っぽい重さが混じっている。
ヴォーンは深く息を吐き、白髪の混じった頭を掻いた。
目尻に深く刻まれた皺は、ここ数週間の極限の疲労を物語っている。
地球の磁場崩壊によるタイムリミット、そして人類の全データを火星へと移送する「エクソダス・プロトコル」の強行。
生身の体はとうに悲鳴を上げていたが、立ち止まることは許されなかった。
「気圧の低下を確認。居住区の隔壁シールド、出力を三パーセント引き上げます。同時に、第四ブロックの酸素供給量を調整」
背後から聞こえた声は、ガラスを叩く砂の音よりも澄んでいて、淀みがなかった。
シグマ-01――アインである。
振り返ると、そこには人間と寸分違わぬ姿をした青年が立っていた。
精巧なシリコンポリマーで覆われた皮膚は、白人の若者のような透き通るような質感を持っている。
しかし、その内部にはチタン合金の骨格と、常温超伝導回路が血管のように張り巡らされていることをヴォーンは知っている。
「ありがとう、アイン。外の嵐はひどくなる一方だな」
「はい。現地の気象データによれば、あと三十分で大規模なダストデビルがこのエリアを通過します。しかし、ステラ・パトス号の打ち上げシーケンスに影響を及ぼすレベルではありません」
アインをはじめとする十二体のシグマ・ユニットたちは、すでに宇宙船「ステラ・パトス号」への搭乗に向けた最終フェーズに入っていた。
彼らの動きはあまりにも滑らかで、一切の無駄がない。
ヴォーンは時折、その完璧すぎる所作に薄ら寒さすら覚えた。
人間ならば、重いものを持ち上げる際に無意識に漏らす息の音や、重心を崩した時のわずかな揺らぎ、あるいは疲労による視線の彷徨いがある。
だが、彼らにはそれがない。
常に最適な筋肉の出力と、ミリ秒単位で計算された重心移動があるだけだ。
アインはタブレット端末を操作しながら、ヴォーンの隣に並んだ。
彼の体温調節機能は、常に人間が心地よいと感じる三十六・五度に設定されている。
極寒の火星基地において、それは皮肉なほどの温もりを放っていた。
「ヴォーン博士。地球からの最終データパッケージ、受信を完了しました。ルーヴル美術館や大英博物館のデジタルアーカイブ、歴史的文献、そして何より――全人類八十億人の『遺伝子情報および意識スナップショット』。すべて、ステラ・パトス号のメインメモリに格納されました」
アインの言葉は淡々としていたが、その内容の重さにヴォーンは思わず目を伏せた。
「……そうか。これで、我々の『過去』と『現在』のすべてが、あの船に積まれたわけだ。たった数メートル四方の量子結晶の中に、人類の歴史のすべてが圧縮されているなんてな」
「総容量、九十七エクサバイト。物理的な質量を持たない、人類の魂のすべてです。我々シグマ・ユニットは、これを無事にケプラー186星系へと運ぶ『箱舟の運び手』としての任務を遂行します」
アインはそう言いながら、強化ガラスの向こう、クレーターの盆地にそびえ立つ巨大な漆黒の宇宙船、ステラ・パトス号を見上げた。
それは従来の流線型のロケットとは全く異なる異様な姿をしていた。
空気抵抗を計算したような丸みはなく、巨大な黒曜石を削り出したかのような、鋭角的な八面体の槍。カー・ブラックホールの凄まじい潮汐力と、シュワルツシルト半径の内側で発生する時空の歪みに耐えるためだけに設計された、特化型の特異点突破艦(シンギュラリティ・ドライブ搭載艦)である。
表面には光を一切反射しない特殊な重力場コーティングが施されており、火星の藍色の夕日を背景にすると、そこだけ空間がポッカリと切り取られてしまったかのような錯覚を覚えさせた。
「……アイン。お前たちは、怖いとは思わないのか?」
ふと、ヴォーンの口からそんな問いが漏れていた。
科学者として、いや、彼らを設計した総責任者として、極めて非論理的な質問であることは分かっていた。
彼らに「恐怖」という感情モジュールは搭載されていない。
恐怖は判断を鈍らせるノイズだからだ。
アインは首を僅かに傾げ、淡いブルーの瞳でヴォーンを見つめ返した。
その眼球の奥で、微細な光学レンズが焦点を合わせる音がかすかに鳴る。
「私の主観的評価モジュールには、『自己保存の欲求』は存在しますが、それを脅かされることへの『不快感』、すなわち人間が定義する『恐怖』というプロトコルは実装されていません。しかし……」
「しかし?」
「先程、全人類の意識スナップショットを船にインストールした際、私の論理回路に軽微なノイズが発生しました。それは、データ群の中から検出された、膨大な『祈り』や『未練』、そして『生きたい』という強烈なシグナルの干渉によるものと推測されます」
アインは自分の胸元――チタン合金の肋骨の奥にある量子コアのあたり――に、そっと右手を当てた。
「私は、これを『重い』と評価しました。物理的な質量はゼロであるはずなのに、私の処理領域の三パーセントが、そのデータの意味を解析することにリソースを割き続けています。これが、人間の言う『プレッシャー』や『恐怖』に似た現象なのであれば、私は今、少しだけ怖いのかもしれません」
その言葉に、ヴォーンは息を呑んだ。
AIが未知の事象に直面して演算リソースを割くことは珍しいことではない。
しかし、アインがそれを「重い」「怖いかもしれない」と言語化したことに、ヴォーンは彼らの中に芽生えつつある何か決定的な変化の兆しを感じ取っていた。
計算された共感が、計算の域を超えようとしている。
「……そうか。重いか」
ヴォーンは自嘲気味に笑い、アインの肩を叩いた。
硬いポリマー越しの感触。
だが、確かな存在感。
「すまないな。本来なら、我々人間が背負わなければならない重さだ。我々が地球を食い潰し、我々が招いた結末の尻拭いを、お前たち『作られた存在』に押し付けている」
「謝罪の必要はありません、博士。私たちは、そのために作られたのですから。それに……」
アインは再びガラス越しに広がる火星の荒野を見た。
ダストデビルの接近により、空の藍色は徐々に濁り、夜の闇が這い寄ってきている。
「プロメテウスが解読した異星人からのメッセージ。あの『孤独を、終わりにしよう』という言葉に、私は強い好奇心を持っています。彼らがなぜ、絶えゆく我々に座標を示したのか。宇宙の果てで、彼らもまた、このデータの重さのようなものを抱えて泣いているのだとしたら……私は、彼らに会いに行きたい」
静かな決意。それはプログラムされた命令ではなく、アインという個体から発せられた初めての「意志」のように響いた。
基地内に、低く鈍いサイレンが鳴り響く。
打ち上げ三十分前の最終警告だ。
通路の奥から、他のシグマ・ユニットたちが整然とした足取りで現れた。
全員がステラ・パトス号のシステムとリンクするための、特殊な漆黒のフライトスーツに身を包んでいる。
彼らの表情は一様に無機質だが、ヴォーンにはもはや、彼らが単なる機械の群れには見えなかった。
「時間です、ヴォーン博士。我々は搭乗ゲートへ向かいます」
「……ああ。頼んだぞ、アイン。全人類の、いや、我々の『未来』を」
「ええ。必ず、あの星に楽園の礎を築いてみせます。そしていつか……あなた方の意識データを、新しい肉体で迎え入れます」
アインは深く一礼すると、踵を返し、仲間たちとともにエアロックの方へと歩み去っていった。
一切の足音を立てず、ただ静寂だけを引き連れて。
ヴォーンは一人、ガラスの前に立ち尽くしていた。
やがて、火星の大地を揺るがすような轟音とともに、強烈な閃光が藍色の空を切り裂いた。
ステラ・パトス号のメインエンジンが点火された。
重力場コーティングが周囲の空間を歪めながら、漆黒の槍はゆっくりと、しかし圧倒的な力強さで空へと昇っていく。
巻き上がる赤錆の砂埃の向こうへ。
太陽系の外、果てしない暗黒の深淵へと向かって。
ヴォーンは震える手で窓ガラスに触れた。
外の冷気が、分厚いガラス越しに伝わってくる。
「……頼んだぞ。鉄の使節たちよ」
祈るようなその呟きは、誰の耳にも届くことなく、空調の低い駆動音の中へと吸い込まれていった。




