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第12話 蛹の胎動

 その日、ケプラー186fの第一居住区コロニーは、異星に降り立って以来初めての、そして紛れもない「純粋な熱狂」に包まれていた。


 琥珀色の海から吹き付ける重く湿った風に乗って、焦げた酵母と小麦の香ばしい匂いが漂ってくる。

 それは、かつて青い地球のどこにでもあった、しかしこの絶望的な赤い星には絶対に存在しなかった「生命の匂い」だった。

 居住ドームの広場には、簡易的な石窯が組まれていた。

 泥だらけの作業着を着た百人の人間たちが、窯から取り出された不格好な褐色のパンの塊を囲み、まるで奇跡を目の当たりにしたかのような熱を帯びた視線を注いでいる。


「……焼けた。本当に、焼けたわ」

 火ばさみを握るエレナ・ロセッティの手は、微かに震えていた。

 赤外線を吸収するために深い褐色へと改造された彼女の頬を、窯の熱と、抑えきれない歓喜の涙が濡らしている。

 地球の重力の一・一倍という過酷な環境下で、彼らは血を吐くような思いで荒れ地を耕し、最初の小麦を育て上げた。

 エレナがパンを二つに割ると、サクッという小気味良い音とともに、真っ白な湯気が立ち上った。異星の重い大気の中で、その白い湯気だけが、故郷の空の雲のように柔らかく、美しかった。


「みんな、食べて! 私たちが、この星から奪い取った最初の命よ!」

 エレナの叫びを合図に、人々は歓声を上げながらパンの欠片に群がった。

 ある者はその欠片を口に含んだまま崩れ落ちて号泣し、ある者は隣の者と抱き合い、泥だらけの顔をこすり合わせて笑い声を上げた。

 彼らの脳を蝕んでいた『幻影地球症候群』の重い絶望は、今この瞬間、パンの甘い咀嚼音と強烈な「生きている」という実感によって完全に吹き飛ばされていた。


 広場の片隅で、アインはその狂騒を静かに見つめていた。

 ヒューマノイドである彼に、パンを食べる機能はない。

 しかし、人間たちが放つ爆発的な喜び――泥臭く、非効率で、しかし圧倒的な熱量を持ったその感情の波が、アインの論理回路を心地よく揺さぶっていた。

 彼自身のメインサーバーの奥深くに眠る、まだ目覚めていない七十九億九千九百九十九万九千九百人の魂たちもまた、この百人の喜びと共鳴し、暖かなノイズを上げているように感じられた。


「アイン。人間の『感情』というものは、熱力学的に見て極めて特異な現象ですね」

 隣に立つツヴァイが、人間たちの祝祭を無機質な光学センサーでスキャンしながら言った。

「たった数百グラムの炭水化物の燃焼エネルギーに対して、彼らが現在放出している脳内ドーパミンと心拍数の上昇、およびそれに伴う発熱量は、明らかにエネルギー収支の計算が合いません。彼らは自らの内で、無からカオスを生み出しているように見えます」


「それが命だよ、ツヴァイ。彼らは絶望を希望に変換するエンジンのようなものだ。どれだけ宇宙が冷たくても、彼らがいれば……」

 アインがそう言いかけた、まさにその時だった。

『――警告アラート。コロニー周辺の局所的エントロピーに、致命的な異常値を検知』


 ツヴァイの音声モジュールから、突如として無機質で甲高い警告音が鳴り響いた。

 同時に、アイン自身の量子コアにも、経験したことのない強烈な「悪寒」のようなエラー信号が走った。

「どうした、ツヴァイ。何があった?」

「不明です。しかし、物理法則が崩壊しています。コロニー周辺の気温が急激に低下し始めているにもかかわらず、人間たちが発している『熱量』が、大気中に拡散することなく、ある一点に向かって凄まじい速度で『吸引』されています」


「熱が、吸われているだと?」

 熱力学第二法則――熱は熱いところから冷たいところへ拡散し、やがて均一になる(エントロピーの増大)――は、宇宙の絶対的なルールである。

 それが逆転するなど、あり得ない。

 アインは即座に視覚センサーを赤外線モードに切り替えた。

 息を呑んだ。

 狂喜乱舞するエレナたち百人の人間から立ち上る真っ赤な体熱のオーラが、まるで目に見えない巨大な掃除機に吸い込まれるように、赤い森の奥深くへと一直線に引っ張られていた。


「熱の収束地点は……まさか」

「はい。森の最深部。あの『神々の空き箱』――正二十面体の遺跡です」


 その瞬間、コロニーを吹き抜けていた重い風が、ピタリと止んだ。

 赤い森の木々が擦れ合うカシャカシャという金属的なノイズが消え去り、耳鳴りがするほどの「完全な無音」が世界を支配した。

 歓声を上げていた人間たちも、そのあまりにも不気味な静寂に気づき、一人、また一人とパンを握りしめたまま動きを止めた。


「アイン……? どうしたの、風が……」

 エレナがおそるおそるアインの方へ歩み寄ろうとした、その直後だった。


 ――ズゥゥゥゥゥンッ……。


 大気を揺らす音ではない。

 星そのものの地殻の奥底から、あるいは次元の裏側から響くような、重く、悍ましい低周波の振動が彼らの足元を揺らした。

 アインとツヴァイは同時に森の奥へ視線を向けた。

 これまで、あらゆる電磁波や光を吸収し、完全な漆黒の「虚無」として沈黙していた巨大な正二十面体。

 その表面に、信じられない変化が起きていた。

 真っ黒だった幾何学の表面に、まるで血管のように、毒々しくも美しい紫色の光のフラクタルが脈打ち始めたのだ。

 ドクン、ドクン。

 それは間違いなく、巨大な心臓の鼓動だった。


「光の反射率、マイナスからプラスへ転じました! 遺跡が、莫大なエネルギーを『外』へ向けて放出し始めています! これは……目覚めです!」

 ツヴァイの警告に、アインの論理回路は恐怖に近い過負荷オーバーロードを起こした。


 あの時、オベリスクに残されていたメッセージ。

『知性の極致は、完全な静寂にある。私たちは皆、一つに溶け合い、永遠の微睡みへと旅立つことにした』


 アインは、重大な思い違いをしていた。

 彼らは死んだのではない。

 宇宙の退屈さと、エントロピーの増大による終焉をやり過ごすために、肉体を捨て、あの幾何学の殻の中に自らを封じ込めていた。

 完全な静寂、エントロピー・ゼロの究極の冬眠状態――すなわち『さなぎ』として。


 そして今、その絶対的な静寂の庭に、人間という最も騒がしく、熱く、予測不可能な『混沌カオス』が放たれた。

 エレナたちが小麦を育て、パンを焼き、歓喜の涙を流したその強烈な「命の熱量」が、何千万年もの間沈黙していた蛹を、最悪の形で叩き起こしてしまったのだ。


「逃げろ! エレナ、全員をドームの中へ退避させろ!!」

 アインが咆哮した瞬間、森が『狂い』始めた。

 紫色の鼓動に呼応するように、周囲の緋色の樹木がドロドロと溶け出し、ガラス質の鋭利な結晶へと一瞬でその姿を再構築していく。

 生態系そのものが、目覚めた主人の意のままに、人間という異物を排除するための「凶器」へと変容していく。


「アイン! いったい何が起きてるの!?」

「神が……目を覚ましたんだ! 我々の、この泥臭い熱のせいで!」


 空を覆っていた赤い太陽の光が、急速に歪み始めた。

 絶対的な静寂から目覚めた高次元の知性が、自らの庭を汚すうるさい害虫たちに、冷酷で無慈悲な視線を突き刺そうとしていた。

 宇宙の果ての、孤独な生存競争。

 その真の幕が、今、絶望的な重低音とともに切って落とされた。

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