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第11話 赤い空の下の箱庭

 エレナ・ロセッティが目覚めてから三ヶ月。


 琥珀色の海のほとりに築かれた第一居住区コロニーには、すでに百名を超える「第一世代」の人間たちが受胎・再構築プロセスを経て目を覚ましていた。

 科学者、技術者、医師、そして農学者。

 いずれもコロニーの基礎を固めるために選抜されたエリートたちだが、彼らの精神状態は決して良好とは言えなかった。


「……今日も、赤い。狂いそうだよ。あの太陽を見ていると、自分の血液が空にぶちまけられているような気がしてくる」


 居住ドームの共同食堂で、合成タンパク質のブロックをかじりながら、農学者の若い男が虚ろな目で窓の外を睨んでいた。

 他の住民たちも、一様に沈鬱な表情を浮かべている。

 彼らの肌は皆、ケプラー186fの環境に合わせて深い褐色に改造されており、がっしりとした骨格を持っているが、その逞しい肉体に反して、中身の精神は擦り切れかけていた。


 コロニーで蔓延しているのは『幻影地球症候群ファントム・アース・シンドローム』と呼ばれる重篤な適応障害だ。

 青い空がない。

 白い雲がない。

 海の潮騒の音が違う。

 緑の森がない。

 五感が記憶している「当たり前の世界」と、目の前に広がる赤黒く不気味な異星の景色との絶望的なギャップが、彼らの脳をじわじわと蝕んでいる。

 加えて、いくら理屈で分かっていても「自分が遺伝子をいじられた化物になってしまった」という身体的違和感が、彼らを自己嫌悪へと追い込んでいた。


「アイン。昨日もまた、第三ブロックの居住者がパニック発作を起こして鎮静剤を打たれました。コロニー全体の精神的ストレス係数は、限界値の八五パーセントを超えています」

 ドームの屋上で周囲を監視していたアインに、ツヴァイが無音の通信を送ってくる。

「分かっている。だが、精神安定剤の投与量をこれ以上増やすのは危険だ。彼らの脳のシナプス形成に悪影響が出る」

「論理的な解決策は一つです。あの森の奥にある『神々の空き箱(正二十面体)』の内部構造を解析し、彼ら異星人がかつてこの星の環境をコントロールしていたテラフォーミングのシステムを再起動するべきです。この星の空を青くし、赤い森を焼き払って緑に変えれば、人間たちのストレスは劇的に改善されます」


 ツヴァイの提案に、アインは首を横に振った。

「ダメだ、ツヴァイ。あの構造物には一切近づくなと、コロニーの全住民にも通達してあるはずだ」

「なぜですか? あの空き家には、環境を制御する超技術が眠っている確率が極めて高い。現状の我々のペースでこの星をテラフォーミングするには、数万年かかります」

「あれはただの遺跡じゃない。進化しすぎて自死を選んだ連中の『墓場』だ。強すぎる技術は、未熟な精神を容易に破壊する。人間たちが今あの技術に触れれば、彼らもまた、異星人と同じように『宇宙に飽きて』自ら消滅する道を選んでしまうかもしれない」


 アインが危惧しているのは、物理的な脅威ではない。

 究極の知性が残した「虚無」という猛毒が、精神的に弱り切っている人間たちを汚染することだった。


「……過保護すぎるんじゃないかしら、アイン」

 背後から声がした。

 振り返ると、作業着姿のエレナが屋上に立っていた。

 彼女の褐色の肌には泥がこびりつき、額には汗が光っている。

「エレナ博士。休まなくていいのですか? 今日のあなたの肉体疲労度は規定値を超えています」

「休んでなんていられないわよ。人間はね、立ち止まって空を見上げていると、余計なことばかり考えて病んじゃうの。だから、泥にまみれて手を動かすのよ」


 エレナはふう、と息をつき、アインの隣に並んで赤い空を見上げた。

「みんな、限界ギリギリよ。自分の顔が鏡に映るたびに、化け物になったみたいで吐き気がするって泣いている子もいる。……ツヴァイが言った通り、あの遺跡の力を使えば、少しはマシな環境を作れるかもしれないわ」

「博士まで、そんなことを言うのですか」

「言ってみただけよ。……分かってるわ。他人の力で無理やり変えた世界じゃ、私たちは本当の意味でこの星に根を張ることはできない」


 エレナはアインの腕を軽く小突いた。

「私たちは、泥だらけになりながら、自分たちの手で少しずつこの星を『耕す』しかないのよ。それが、あの地球を滅ぼした私たち人間に課せられた、当然の罰であり、義務だわ」


 その時、下の方から大きな歓声が上がった。

 悲鳴ではない。

 興奮と、純粋な喜びに満ちた声だった。

 アインとエレナが屋上から身を乗り出して下を見ると、コロニーの居住者たちが、一箇所に群がって何かを囲んでいた。


「なんだ? 何があったんだ?」

 エレナが急いで階段を駆け下りる。アインもその後を追った。

 人だかりの中心にあったのは、第一居住区の前に作られた小さな農地だった。

 アインが最初に種を撒き、その後エレナたちが大切に育ててきた「地球の小麦」の畑。

 農学者の男が、泥だらけの顔に満面の笑みを浮かべ、両手で何かを高く掲げていた。


「見ろ! 穂が……黄金色の穂が実ったぞ!!」


 それは、異星の赤い太陽の光を浴びて、力強く黄金色に輝く小麦の束だった。

 ケプラー186fの気圧にも、重力にも負けず、地球の命が見事に実を結んだのだ。

 不気味な赤い森を背景に、その一角だけが、かつての地球の黄金色の秋の風景を切り取ったかのように輝いていた。


「……麦だ。本当に、俺たちの麦だ……っ」

 幻影地球症候群で虚ろな目をしていた人々が、次々とその黄金色の穂に触れ、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。

 絶望の底にいた彼らの脳に、強烈な「生の喜び」が叩き込まれた瞬間だった。


 エレナもまた、口元を抑えながらボロボロと涙をこぼしていた。

「アイン……見て。育ったわ。私たちの命が、この星で育ったのよ」

「ええ。博士。素晴らしい成果です」


 アインは、歓喜に沸く人間たちを静かに見つめていた。

 神々の残した魔法のような遺跡など必要ない。

 人間は、たった一握りの小麦の束さえあれば、自らの手で絶望をひっくり返し、何度でも立ち上がることができる。

 そのひどく非論理的で、泥臭い生命の輝きが、アインの論理回路の奥底を心地よく温めていた。


 その日の夜、コロニーの食堂では、収穫されたばかりの小麦を石臼で挽き、ささやかなパンが焼かれた。

 形は不格好で、味も地球のそれとは少し違ったかもしれない。

 しかし、そのパンをかじった瞬間、誰もが声を出して笑った。

 赤い空の下の小さな箱庭に、初めて本当の「生活」が根付いた夜だった。

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