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第10話 最初の産声と記憶の檻

 意識の浮上は、泥の底から水面へと無理やり引きずり上げられるような、圧倒的な不快感と恐怖を伴っていた。


 熱い。

 寒い。

 重い。

 痛い。

 矛盾するあらゆる感覚情報のノイズが、エレナ・ロセッティの脳髄を容赦なく殴りつけていた。

 二十光年の距離を光速を超えて転送された彼女の『魂』は、サーバーという完璧に静寂なデータ空間から、突然、血と肉と神経の塊という不便極まりない『檻』に押し込められたのだ。


「ゴハッ……! カハッ、あ、あぁ……ッ!」


 人工子宮インキュベーターのハッチが開いた瞬間、エレナは床に転げ落ち、胃液を吐き出した。

 肺に入り込んでいた琥珀色の羊水を咳き込みながら排出する。

 地球の空気に比べて粘度が高く、二酸化炭素を多く含む異星の大気が、火のついた炭のように喉を灼いた。

 息を吸うたびに、胸郭がひび割れるように痛む。

 一・一倍の重力は、彼女の全身に目に見えない鉛の重りを縛り付けているかのようだった。


「エレナ博士! ゆっくり息を吐いてください。まだ自律神経が新しい肉体と完全に同期していません」

 硬く冷たい、しかしどこまでも穏やかな声が頭上から降ってきた。

 エレナが顔を上げると、そこには漆黒のフライトスーツに身を包んだヒューマノイド――アインがひざまずき、彼女の背中を優しくさすっていた。


「ア、アイン……? ここは……。ああ、体が、重い。視界が……赤い」

「パニックを起こさないでください。ここはケプラー186f。地球から二十光年離れた、我々の新しい故郷です。あなたのデータ転送は完璧に成功しました」

 アインは傍らに用意してあった分厚い毛布で、震えるエレナの体を包み込んだ。


 エレナは荒い息をつきながら、自身の両手を見つめた。

 彼女の記憶にある、研究室にこもりきりで青白かった自分の手ではない。

 極端に発達した骨格、分厚い皮膚、そして何より、赤外線を吸収するために深い褐色へと遺伝子改変された肌。

 それは、エレナ・ロセッティの記憶にある自分自身の姿とは似ても似つかない、全く別人の肉体だった。


「私の、体……。どうして、こんな……」

「申し訳ありません、博士」アインの声には、確かな罪悪感が滲んでいた。

「この星の気圧、重力、そして赤色矮星の有害なフレアからあなた方を守るため、ナノマシンによる肉体構築の際、遺伝子コードに大幅な修正を加えざるを得ませんでした。地球人のままでは、ここでは一日も生きられないからです」


 エレナは毛布を強く握りしめ、ガチガチと歯を鳴らした。

 精神データは紛れもなく地球の科学者エレナ・ロセッティだが、肉体はこの未知の星の環境に合わせてカスタマイズされた「異星のクリーチャー」だ。

 強烈な身体違和ボディ・ディスモルフィアが彼女の精神を激しく揺さぶる。

 自分が自分でないような恐怖。


「アイン……ヴォーン博士は? 彼も、無事なのよね?」

 エレナは震える手で、すがるようにアインのチタン合金の腕を掴んだ。

 アインは一瞬だけ目を伏せ、静かに首を横に振った。


「ヴォーン博士の意識データは、メインサーバー内に安全に保管されています。ですが、博士は自身の転送を後回しにするよう、プロトコルに厳重なロックをかけていました。『老いぼれが最初に起きたって、新しい世界の役には立たん。若い連中が土台を作った後で、ゆっくりコーヒーでも飲みにいくさ』……と」


 その言葉を聞いた瞬間、エレナの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。

 それは恐怖の涙でもあり、無事に生き延びた安堵の涙でもあり、そして、二度と帰れない青い地球への強烈な喪失感の涙だった。

 地球はもうない。

 ヴォーン博士たちが命を賭して守り抜き、この暗黒の宇宙空間に放り投げてくれたバトン。

 その重さが、一・一倍の重力以上にエレナの肩にのしかかる。


「う、あああぁぁぁ……ッ!」


 エレナは子供のように声を上げて泣き崩れた。

 赤い空の下、プラントの冷たい金属の床に伏して、彼女はただ泣き続けた。

 アインは何も言わず、ただ彼女の背中を撫で続けた。

 かつて地球で、人間が機械をメンテナンスしていたように。

 今は機械が、ひどく脆弱で、ひどく感情的な人間という存在を、必死に壊れないように抱きとめている。


「泣いてください、博士。今のあなたには、涙を流すための温かい血と、震えるための肉体がある。それが、あなたが『生きている』という何よりの証拠です」

 アインの声もまた、プログラムされた完璧なトーンを外れ、微かに震えていた。


 数時間後。

 ようやく泣き止み、栄養ペーストを流し込んだエレナは、アインの肩を借りてプラントの外へ歩み出た。

 彼女の目の前に広がっていたのは、見渡す限りの赤黒い森と、琥珀色に濁った海。

 そして、空の半分を覆い尽くすほどの巨大さで迫る、燃え尽きかけの赤い太陽。


「……ひどい景色ね。絶望的に不気味で、息が詰まるわ」

 エレナは自嘲気味に笑った。

 褐色の肌に、赤い太陽の光が不気味に反射している。

「ええ。美しくはありません。ですが、空気が薄くても、空が赤くても……」

 アインは、プラントの横に併設された居住ドームの前に広がる、小さな緑の絨毯を指さした。


 それは、アインが一番初めに赤い土に埋めた、地球の小麦だった。

 ほんの数十日前に撒かれたその種は、強靭な生命力でこの星の土壌に根を張り、今や膝の高さにまで成長して、青々とした葉を風に揺らしていた。


「……地球の、麦……」

「はい。ヴォーン博士が遺伝子を調整してくれたものです。この星の土でも、十分に育ちます」


 エレナはふらつく足取りで麦畑に近づき、その緑色の葉にそっと触れた。

 不気味で異質な世界の中で、そのささやかな緑色だけが、彼女をかつての故郷へと繋ぎ止める唯一のアンカーのように思えた。


「アイン。次のカプセルを起動して。一人じゃ、この寂しい景色に耐えられそうもないわ」

「了解しました、博士。……ようこそ、新しい地球へ」


 赤い風が吹き抜ける中、エレナの口元にようやく、微かな、しかし確かな生気の宿った笑みがこぼれた。

 最初の産声は終わり、人類の孤独な戦いが、ここから始まろうとしていた。

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