242話 "サキ"という女
とっぷりと夜がふけた頃。
裏通りの路地に面した場所で、こじんまりと経営しているBARから華やいだ声が響く。
「きゃははははは! お兄さん面白すぎる」
「いやいや、笑い事じゃないっすよ!? ホチキスの芯3500個ですよ!? 一生使い終わらないです!」
「お前マジでダメだなぁ。あははははは! そんなやつうちのバイトにいたら即クビだな!」
「いや本当だよな、先輩が気づいてくれなかったら俺シャレになってねぇかも……助けて貰ってばっかなんだよ。かっこ悪い、何か返してあげたいのに」
佐野は眉を下げて笑う。
汗をかいたグラスに目を落として、カランと心地よい音を手元で奏で、耳を傾けていた。
女性はグラスに残った唇の跡を軽く指で拭い、縁を指先で撫でて軽く遊ぶ。
「好きなのね……その先輩のこと」
「へっ!? ……いや、あの……えっと……。あ! こ、今度はお姉さん何か話してくださいよ!」
「リノ」
「え……?」
「リノって呼んで。ユウ君」
大きな瞳だけが緩やかに佐野を捕らえた。
慌てて視線をそらし俯く。
「いや、えっと……」
佐野は気まずそうに言葉を濁した。
女性は視線を戻し、正面のカウンターの奥にあるウイスキー達に目を向ける。
物悲しそうに眉を下げて口を開いた。
「そっか。好きな人以外、下の名前なんて呼びたくないよね。じゃあ……そうだな。サキちゃんて呼んで」
女性の落ち込む様子に慌てる佐野をフォローするように、ツマミの下準備をしながら近重が女性に向けて笑う。
「あはは。それも下の名前っぽくないです?」
ノンノン! と女性は顔の前で指を振り、微笑み返す。
「そんな事ないわよ私の苗字だもの……ね? それなら問題ないでしょ?」
「えっと……まぁ。それなら……わかりました。サキさん」
「ありがとう。……本当に心地良いわこのお店。全てぶちまけたくなっちゃう……嫌な事全部……あなた達に甘えて聞いて欲しくなっちゃいそうだわ」
まつ毛に影を落としてグランマニエを一気に飲み干す。
空いたグラスをカラカラと鳴らした。
「マスター、同じもの頂戴。それとチェイサーも」
「ホント強いっすね。お姉さん」
「やだ、さっきの話聞いてなかったの? サキ!」
「え? 俺もっすか!? じゃあサキちゃん」
近重が笑いながらグラン・マルニエのクビレが強いボトルを手に取り、新しいグラスに合わせたサイズの球型の氷を一つを落とし、ダブルを注ぐ。蜂蜜のようにとろみを帯びた琥珀色が氷に溶けてゆっくりと滲んでいく。
サキという女性は近重からグラスを受け取り、憂いを帯びた表情で眺めていた。
佐野はその様子を見て、胸が痛くなる。
(この人も何か傷つくことがあったのかな……)
眉を下げて見つめていると、サキと目が合った。佐野は思わず目を見開く。
少し……泣きそうに見えた。
「私ね。捨てられそうなの」
「……え?」
佐野の声が店内に虚しく響く。
サキはまた正面を向いて頬杖をついた。
「彼は同じ会社の人なんだけど、やっとの思いで東京に呼び寄せて貰えたのに。来てみたらもう、他の人にお熱でね。……私たち婚約してるはずなのに、どうしてって。何度も喧嘩したわ、こないだやっと話し合って……分かり合えたと思ってたのに。またその女性の所に戻ってしまったの」
静まり返る店内。
たった3人しかいない狭い空間。
先程まで暖かだった空気が一気に冷えた。
佐野は眉を下げた。
「……そんな。サキさんもしかして……」
その言葉を察したサキは頷く。
「ええ、そうよ。二人が歩いて、彼の部屋に行くとこ見ちゃったのよ。当たり前のようにね……」
ダン!!!
グラスをカウンターに叩きつけた。
「お、おい。優、やめろ。割れる」
「だって、酷いじゃないか!! なんで婚約してるのに!」
「いや、そうだけど」
(そんなの本当の話かどうかも分からねぇだろ。初対面なのに)
近重は困りながら静かにサキを見た。酔いしれるようにウイスキーを嗜んでいる。
どうも、そんなふうに思えない。
にわかに信じられない近重は、酒の力と恋心でまともな判断力を失っている佐野の暴走を止めようと、やんわり宥めた。
「とりあえず、お前酔すぎ。水飲め、な?」
「酔ってるんじゃねぇよ!……サキさんが可哀想すぎるだろ、そんなの……!!」
「ご、ごめんね!? こんな楽しくもない話をしちゃって……もうやめよ!? 何か違う、楽しい話しなくちゃ!」
急に慌てて取り繕うサキ。
佐野は首を振る。
「無理しなくていいから。俺たちで良かったら、吐き出してください」
(え? なんで俺も?)
佐野はある意味純粋。お人好しで騙されやすい。
このままだと美人局にでも遭うんじゃないかと思った近重が、佐野に手を伸ばそうとした
その時。
サキの大きな瞳から、雫が零れた。
店内に、BGMだけが流れる。
男二人は息を飲み、固まっていた。
その表情に気付き、サキは慌てて取り繕う。
「ごめ……やだ。私ったら……初対面の人達の前で……飲みすぎたのかしら」
笑いながらも、涙は止まらない。
佐野は真剣に、サキに方向を向けて口を開く。
「初対面の関係ないやつだから、話せることもあると思いますよ。それでサキさんの心が軽くなるなら」
泣きながら、サキが微笑む。
「ありがとう……ユウ君。あのね、先週私、誕生日だったの。だから婚約してるんだし、せめてその日くらいは一緒に居てって言ったの。そしたら『俺にはお前だけだよ』って言ってくれて……夜まで一緒にいてくれた。嬉しかったわ。それなのに……それなのにっ!」
悲痛の叫びが店内に響く。
「彼は私の知らない間に、その女性と浮気して二人で住んでた……。私には住所すら教えてくれなかったのに。どうして!? どうしてそんなことできるのよ……あんまりじゃない」
「ほ、本当に婚約してたんですか? もしかしてその男口先だけで……ほら、遊びだったのかもしれないし」
オロオロしながら口を開く近重に左手を見せた。
「……ほら指輪も貰ったわ。疑う気持ちは分かるわよ。私の方がストーカーみたいよね」
「い、いやそんな意味では」
「じゃあこれ見て。ストーカーならこんな事出来ないはず」
二人にある画像を見せつけた。
佐野は目を見開く。
そこにはベッドで眠りこける色素の薄い男性と、その腕に抱き寄せられ、幸せそうな笑みを浮かべ微笑むサキの自撮り写真。
暗がりで写りの悪さが余計に生々しい。
布団で色んな部位は隠れているが、事後なのは明白だった。
「こいつ……やっぱり!!!」
サキから受け取ったスマホに目落とし、憎しみを滲ませた声で唸った。
その震える手を覗き込んだ近重も驚きの声を上げる。
「あれ? ……この人見覚えが……って。ええ!? 優!!」
近重の声より先に、彼女の手を握り真剣な表情で向き直る佐野。
「サキさん! こんな男やめた方がいい! ……やっぱりコイツカスだ!! 思った通りだった!」
戸惑いか、不安か。
弱々しく揺れる視線が佐野を映す。
「え? か、彼を……周を知ってるの!?」
ギリッ
佐野の口の中に鉄の味が広がった。
『あまね』
何度も何度も聞いた。
澪桜先輩の薄い唇から発せられる嫌な響き。
毎日俺に見せつけるみたいに送り迎えして、
金にものを言わせ、会社の女性にキャーキャー言われて調子に乗ってるクソ野郎。
この現実離れした、いけ好かない顔立ち。
忘れるわけが無い。
あんな優しい先輩を
騙しやがって。
握りこんだ佐野の指の力がどんどん強くなる。
「俺の好きな人と一緒に住んでる男がそいつですよ。結城 周……って人でしょ」
「そんな……!?嘘でしょ……!?」
サキは大きく泣き崩れた。
佐野がサキの背中を摩り、近重がおしぼりを渡す。
温かなおしぼりを受け取って、淑やかに濡れた頬を拭ったサキは、佐野に静かに呟いた。
「……それじゃあ、ユウくんは彼女と同じ職場なのね。……こんな偶然あるんだ。ねぇ、ユウくん。初対面でこんな事ダメだって分かってる。だけど……お願い聞いてくれない? 彼女の為にも……私の為にも」
「俺にできることなら……」
「お、おい優、早まるな。もう少し考――」
「重、お前ちょっと黙ってろ」
潤んだ瞳に捕らえられた佐野は、もう彼女の言葉に頷く他に選択肢はない。
(安達先輩を魔の手から救うんだ。俺がこの手で)
自分の欲ではなく、
あくまで澪桜の為だと
そう、心の中で自分を正当化するように何度も言い聞かせて――。
次回更新は25日です!
よろしくお願いいたします!!




