219話 甘い朝と宣戦布告
週明けの月曜日。
株式会社ユリシス。朝8時30分。
一台の高級車が音もなく停止する。
ハザードを点滅させ、中から出てきた男性が助手席側にまわり、慣れた手つきでエスコートをした。
「いつもありがとう、周さ……周」
周は眉を下げて綻ぶ。
「……もういいよ。無理して呼び捨てしなくても。俺は澪桜に呼ばれるなら、どんな風な呼び名でも嬉しいから」
「……じゃあ、お母さん!」
「なんでだ!! 俺は産んでない!」
脊髄反射のようなツッコミに澪桜は腹を抱えて笑う。
その様子にホッとした表情を浮かべた周だが、すぐに憂いを孕み、影を落とす。
不安がる仕草に澪桜は片眉だけ動かして周の髪を耳にかけた。
「もー。まだ気にしてるのかい?」
「……昨日は本当にごめんね?」
しょげた犬のように頭を下げて肩を落とす。
弱々しい声に澪桜は堪らずそのまま髪を撫でた。
「いいって。お互い様だよ。私も君が巨乳見てたと思ってたわけだし」
「……うん。でも俺、澪桜に凄い酷いこと」
「気にしすぎ! 元はと言えば、メガネ姿の周さんが刺さり過ぎて悶絶したのに逃げたせい。次から惜しげも無く褒め倒してガン見して、激写する事にする」
「そっ……それは俺が照れちゃうよ」
口元に手を当てて紅潮を隠すように視線を逸らす。
そんな周が可愛くて澪桜は頬を緩めた。
「お互い、照れてばっかりだね。だけどそんな今が愛おしいよ」
「澪桜……もし君が望んでくれるなら、俺、本当に明日からメガネかけるよ。そのくらいしかできないけど、ずっと……好きでいてほしいから」
一瞬止まった澪桜の手が周の髪を掠め、宙を彷徨う。
呆れたような声が返ってきた。
「ったく。いらないってば! そんな激重制約」
「でも、俺」
「何もしなくても私は君が好き。君の全てが好きなんだよ。顔も性格もなにもかも。だからもう凹まないで。……それに、たまに刺す方が悶絶する私を見れるんじゃないかい?周さん、そういうの好きだろ?ドSだから」
まだ反省して立ち直りきれてない周に、焚き付けるようにイタズラな顔を浮かべて言う。
その意図を汲み取った周は、澪桜の優しさに応えるように、表情を変えた。
「……確かに、それは美味しい。ドSなのは否定できないし。そんな事言われたら俺、色々試しちゃうけどいいの?」
「あはは。楽しみにしとく」
眩しい笑顔を浮かべてエントランスに向かった。
2、3歩進んだ所で、視線を感じ振り返ると、周は立ったまま、澪桜を見つめて動かない。
「……? 会社、行かないの?」
「……君が見えなくなるまで、ここにいたい」
風に揺れながら、甘く穏やかな声で呟いた。
静かに佇む彼が愛おしくて。
澪桜はまわりに誰もいないことを確認し、走り出す。
ふわっ。
周は目を見開いた。
鮮明に香る。
白檀の香り。
腕に触れる絹のような髪。
優しく背中を包む華奢な感触。
「周さん、大好き」
周に腕を回し微かに呟いたかと思うと、真っ赤な顔で慌てて離れようとする澪桜。
思わずその手を強引に引き寄せた。
華奢な身体を捕らえるように包み込む。
「俺も、死ぬほど愛してる」
溢れ出る愛情を惜しげも無く伝えるように、おでこにキスを落とす。澪桜の立場を潰さないように、出社する社員に見られる前に腕を解いた。
照れたまま澪桜が手を振って会社に消えていく。
風に乗って白檀の香りが鼻を掠めた。
胸が軋む。
(まだ足りない……もっと抱きしめていたかった)
自分の中の狂おしいほどの熱情に呆れつつ、周も車に乗り込んだ。
***
少し時は遡り
8時半。
株式会社 ユリシス
向かいのマンション1階にある24Hコインランドリー。
窓ガラス越しに凝視している人物がいた。
帽子にマスク、サングラス。
異様な服装の彼女だが、無人のコインランドリー内では違和感などない。
そこに、音もなく現れた黒いセダン。
滑らかな曲線と濡れたように輝く深い黒が異様に目立っていた。
女は身を乗り出す。
中から出てきた色素の薄い男性。
そして、彼にエスコートされ出てきた濡鴉色の髪を靡かせる女性。
「……来たわね」
ギリリ。
唇の端を噛み締める。
あんな女がなぜ。
結城マネージャーと生活し、あそこまで大切にされているのか。
理解出来なかった。
みすぼらしい服装。
ダサい髪型。
しょぼい顔。
何を取ってみても、結城 周という男には何一つ相応しくない。
注視して二人を観察する。
少し離れていて会話は聞き取れない。
だが、周の顔は読み取れる。
コロコロと変わる表情。
会社では絶対誰にも見せない、恋する男の顔。
大学の頃ですら……見た事がない。
それをあの女が独占している。
それがどうしようもなく、憎い。
怒りが込み上げ、短くなってしまった人差し指の爪を噛んだ。
手に持つスマホで動画を撮り続けながらも視線は外さない。
やっと女は会社に向かうようだ。
(ブスの癖に、さっさと会社に行け)
湧き上がる妬みをぶつけるように悪態をつきながら、録画をやめようとした瞬間。
目を見開いた。
振り返り、走り寄る女。
重なる二人。
欲しくて堪らない彼の背中に回る腕。
バキッ。
歯に力を入れ過ぎてとうとう爪先が割れた。
しかも。
一度離れた女の腕を引き、
彼の方から抱きしめ返す。
(なんで? どうして? ……そんな女を抱きしめるの? ……ウソよ。信じられない。あんなブスに何の価値があるって言うのよ)
目の前の信じられない光景を、ただ見つめることしか出来なかった。
あれだけモーションをかけても取り付く島もなかった結城 周。
それがどういう経緯であそこまでのめり込んでいるのか。
(お前は彼女に何一つとして敵わない)
周に、そう突き付けられている気がした。
激しい怒りで震える指を両手で押さえ、撮り終えた動画を確認する。
周が車で走り去った後、コインランドリーから出て、休みの間に契約していた興信所へ一連の動画と画像、依頼の詳しい内容を送信する。
憎しみを帯びた指は物凄い速さでスワイプした。
『先日お話していた件の依頼ですが、この女の部署、社内の交友関係を洗ってください。よろしくお願いします』
文字を確認し送信する。
すると少しだけ気持ちがスっと軽くなった。
あの女を地獄に落とす日が近づいた、そんな気がして。
コツコツ。
高飛車な音を鳴らして、用済みの場所から離れて行く。
バケット型の帽子を脱いだ。
緩やかなウエーブの髪を靡かせ手ぐしで髪を整える。
(SNSを調べたけど、あの女も結城マネージャーも全く浮上しなかった。きっと結城マネージャーがSNSを禁止してるんでしょうね。それ以外考えられない。だってあんなハイスペ男を手に入れてマウント発信しないなんて、考えられないもの)
軽やかに振り返り、ユリシスに顔を向けて挑発的に口角を上げた。
「楽しみにしていなさい。アダチ ミオ、結城 周は絶対に渡さないから」
無機質なオフィス街で甘ったるい声が響く。
誰に向けるでもない、神崎からの宣戦布告―――




