208話 ハウツー本と保健体育
腐海弁当から数日後
ユリシス社内。
終業を知らせるチャイムが鳴る。
残業撲滅強化月間。
省エネ月間。
9月に入って早々に、オフィス入口にデカデカと貼られた二つの貼り紙。
先月ボーナスが出たばかりだからか。
この通達の翌日から館内は常に熱気で溢れ、社員達は残業で評価が下がらないように毎日必死で仕事をこなす。
今日もチャイムと共に一斉に帰る支度をする澪桜の同僚達。
(うちの会社もあと5年か……)
物騒な事を考えながら少し汗ばんだ肌を汗ふきシートで拭いて、ひんやりパウダーによるバフがかかってる間にエレベーターに乗り込む。
不意にスマホを取り出し、画面を確認すると周から着信が入っていた。
時間は15分前。
4件ほど。
何事かとエントランスを抜けてから、着信ボタンを押す。スマホを耳に当てながら目の前の道路を探してみるが、周は見当たらない。
(……今日も残業かな? 本当に最近多いな)
周から事前に9~11月は繁忙期だと聞いていたから驚きはしない。
ただ少し、周の体が心配だ。
毎日迎えに来るために、夜仕事を持ち帰る量も増えてきた。
早朝の会議も増えてるようで、週の殆ど周の寝起きすら見ていない。
しばらく呼出音を鳴らし、かけ直そうとしたタイミングで電話が繋がる。
『もっもしもし!? ……ごめんね!? ちょっとトラブルがあって。パソコンの不具合で部下の作ってたデータ飛んじゃって! 復元したらすぐそっち向かうから』
『す、すみませんマネージャー……』
慌てた様子の周の声と、弱々しい部下らしき男性の声が微かに聞こえる。
背後には数人の声とキーボードのタイプ音
「ああ、気にしなくていいよ。あとどのくらいかかりそうなんだい?」
『……この調子だとあと30分~1時間くらいかな。バックアップも取れてないみたいだからそこから復元も出来なくて、今サーバー経由して原因さがしてるから』
『しゅ……しゅみましぇん』
泣きそうな男性の声。周の『謝らなくていい、仕方ないことだから』って励ますような小声が聞こえる。
周の仕事内容はよく分からないが、デジタルのエキスパートみたいな人達でも、こんなことあるんだなぁと思いながら、軽く頷いてエールだけ送り電話を切ろうとした。
『あ、電話切らないで少しだけ待って』
すると硬い足音がして、静かな所でビデオ通話になった。画面に周の儚い顔が映る。
澪桜も応えるようにビデオ通話に切り替えた。
彼女の顔を見た途端、いつもの優しい顔つきに変わる。
『ごめんね、最近残業増えてて。あれだったら今日も暑いし、先にタクシーで帰ってて?』
「仕事、大変なんだね。気にしなくていいよ、待ってるから。……ちょっと本屋さん寄りたいし」
『あ、本屋? もし変な男がいたら、すぐにコンビニとかに入るんだよ!?』
不安がる周の様子に少し微笑んで、いつものようにしゃくれて見せた。
「へいへい。わっかりやしたァー」
『なんだその返しは! そしてなんだそのアゴは!』
聞き慣れた周の素早いツッコミ。
声を我慢して笑う周につられて澪桜も笑った。ほんの少しだけじゃれ合って電話を終える。
大変そうだけど変わらず優しい周に癒されて、通話終了の画面を見つめしばらく余韻に浸った。
「……はっ!!! いけない! いつも通りやっちゃった! ああいう時はしゃくれないで『愛してる、待ってるわね』と言うのか……うわぁぁ、ハードル高ぇ」
何やらスマホのメモに入れたタスクを開いて確認する澪桜。
最近少しだけ自信がついた。
まあ、山本さんからは
「……なんだその、量産型な顔は」
とか沙也加ちゃんからは
「ぎゃははははははは! 知らない人がいるぅ! 澪桜先輩、顔変わりすぎ!」
とか佐野くんからは
「どしたんすか!? 失恋からの婚活パーティっすか!?」
とか、散々言われたけどこれが普通に美人の顔なのだ! だってそう、MeTubeの人たちとか、コラムの人達言ってた、男ウケ抜群だと!
だからきっとこれが正解!
何も感想言われないけど、周さんだって好みのはず!
ちゅるちゅるの爪を眺めてご満悦の澪桜は、慣れないヒラヒラの服を風で揺らしながら本屋を目指した。
歩き始めて10分程。
職場の近くで一番大きな本屋にたどり着いた。
自動ドアを開けるとフワッと冷たい風が澪桜を迎えてくれた。ほてった体を冷やしながら店内を進んで見回す。
棚に取り付けられた目印を確認しながらお目当ての書籍が並ぶ本棚に向かった。
たどり着いたのは自己啓発、ハウツーコーナー。ズラっと並ぶあらゆるジャンルの本。
目を細めてタイトルを確認していく。
『彼に捨てられる前に捨てる本』
『彼好みの女になる為に』
などなど。
どれも今の澪桜には耳が痛いならぬ、目が痛いタイトルの本達。
自分の目的に合ってそうなタイトルの本を適当に取り、軽く立ち読みしていく。
でも当たってるような。的外れなような。
『浮気のサイン! 彼はソワソワしてない? 残業が増えてない? 怪しいと思ったらチェックする10の事』
(残業してるけど、完全に会社だったぞ……アレで浮気だとしたら相当の手練だ)
『好きとか愛してるは初めだけ! 男は照れて愛を囁かなくなるモノ! マンネリから抜け出すためには』
(……毎日耳にタコが出来るほど言ってるけど。……まだ付き合って4ヶ月だからか?)
『男は女の細かな変化に気付かない。もし劇的に変化したのに気付かないなら、もう貴女に興味がないのかも』
(……これは思い当たる節しかない。メイクも髪型もネイルも変えてきたのに。何もまだ言われてない。前は前髪5mm切っただけで大騒ぎしてたのに)
つい、思い出してまた悲しくなった澪桜が俯く。棚の下に陳列され重ねられた本にちょうど視線が落ちた。
『脱! 魅力のない女! 愛され美佐子が解き明かす、男心をわし掴みにする本』
他の本とは一線を置くような配色とキャッチーなタイトルだ。
「美佐子……君は本当に教えてくれるのかい? 美佐子よ」
澪桜は誰もいない本棚に向かって独り言を言いながら
美佐子の本を手に取り軽くページを捲った。
すると……出てくる興味深い男心の本性。
男心を鷲掴みにする方法。
『匂いを学ぼう! 男はいい匂いに恋する生き物! 彼を本気にさせる匂いとは』
『ケバいメイクはNG! 男はナチュラルな美しさに惹かれる。オススメメイク術』
『駆け引きはし過ぎもNG、しなさ過ぎもNG。飽きさせない女になるには』
ペラペラと捲っていくと、手が止まった。
つい、書かれている言葉を目で追って、過去を想う。
『気のある女には基本男は即レス。悩みを聞いてる間無言? それは彼が真剣に聞いてくれているから……』
周さんは私のLINUには今でも必ず即レスだし、悩みは静かにずっと聞いてくれる。
アドバイスなんかしない、肯定し私の気持ちに共感してくれる。その上で良い方向を一緒に考えてくれる人。
『彼は貴女と会話する? 食事の時間は別? ベッドは? 共に共有する時間の大切さ……』
……周さんは帰ってからずっと。
そばに居てくれる。持ち帰った仕事をしてる時以外はそばにいて、楽しそうに話をして。
それで……
『貴女はどうしたい? どう愛されたい? ……愛され美佐子の教えるマル秘アドバイス』
軽く読むつもりが、時間を忘れ真剣に読み込んでしまっていた。
美佐子の温かい言葉がささくれた今の心に染みる。
あとがきの所に、小さく書いてあった字が目に留まった。
『猫背をやめなさい。自信の無い女は魅力半減! まず自分が自分を愛してあげて』
クセでいつも猫背気味だった澪桜は背中を伸ばし、美佐子の本を持って、レジに向かおうとした。
目の端に捉えた赤い文字に動きが止まる。
左の棚に陳列してある本を見て澪桜は目を見開いた。
『溺愛されたい! 彼の独占欲で満たされたい! 心もカラダも男を夢中にさせる女のヒミツ』
「っ!?」
欲しい!!
だけど……いや、なんか刺激が強すぎる!!!
立ち読みもはばかられる(と思っている)タイトルに、手に取ろうとする指が震える。
だって、恥ずかしながらこの歳で未だに雄しべと雌しべしか分からない!
保健体育でしか知らない!
未知だ!
うちの家庭はテレビで流れるラブシーンも禁止だったくらいだし!
だがこんな私も一応、雌しべ(28)
生殖本能もある。
……そりゃ気になるし、多少興味はある。
度々拒否されてきてやっと今動くなんてもう手遅れなのかもしれない。
でも、もしまだ間に合うなら求めて欲しい。
いつか周さんに……お、雄しべとして!!!
だから知識が欲しい。
だって今まさに、拒否られない女になるべく頑張っているのだから。
澪桜は好奇心に負け、手に取る。
ほんの少しだけ、何が書いてあるのか見てみようとしたら……この本だけしっかり四隅にシールがしてあった。
(おのれこのシールめぇぇぇ!!!)
澪桜はこの日、初めて立ち読みが出来ない本への怒りを覚えた。
はっ!
視線を感じ、振り向くと通りすがりの男性と目が合う。
余りの恥ずかしさに耐えきれず、澪桜は素早く本を戻し、早足にその場を離れた。
(なぜ私は逃げてるんだ!?)
まっすぐ通路を歩いていると、漫画のコーナーに差し掛かった。色とりどりの綺麗な表紙絵に目を奪われながらゆっくり探索する。
(男心を知るにはやはり恋愛系か?)
前に松井に貸してもらった本、本来のマンガの趣旨とは違うことが気になったが、異世界恋愛モノは面白いと思った。
案外嫌いではない設定。
ふと、目が止まる。
『溺愛公爵からの寵愛が凄すぎて逃げられません!』
というモノが目に入った。
「ほう?」
綺麗な絵に麗しい公爵との大人の恋。ドキドキ胸キュン必至!と書かれたポップ。
完結まで全3巻らしい。
少ないのでまとめ買いする事にした。
4冊の本を持ったまま、レジにはまだ向かわない。
澪桜の足は違う方向にゆっくり向かう。
先程のハウツー本コーナーに。
恐る恐る先程の本が陳列されてる場所を確認したが、今のところ人はいない。
何気なくその通路を通り過ぎるついでに、例の本を手に入れた。内心は心臓バクバクだ。
(なるほど。亮太はこんな気持ちで思春期を過ごしていたんだねぇ)
澪桜は憐れみと深い共感を弟に向けた。
多分違う。とんだとばっちりの可哀想な、亮太。
先程のアレを一番下にして、セルフレジに並ぶ。
澪桜の順番になり、レジ係かと言うほどの手際で会計を済ませ、急いで全てをリクルートバッグに入れた。
ここならとりあえず周にも見られなくて済むから安全だろう。
(最近、残業増えてるし、いない時にコソッと読もう。……明日からリクルートバッグを入れ替えておけば、気付かないだろう)
鞄を大切そうに持ちながら、一人で澪桜は口角を上げる。
今回書籍に頼ったのには理由があった。
スマホでネット検索やAIに相談するのにも限度がある。
タブやメモのタスクを周さんに見られないようにするのも難しい。
それにネットの知識は偏ってるし、AIも似たような回答やアドバイスしかなくてあまり参考にならなかったからだ。
ツンデレも、クーデレも。天然女子も、あざと女子も。
まぁ、キャラ弁は、ちゃんと美味しかったと言っていた。
あれは周さんを想って、こっそり内緒で夜中に2時間かけて作ったもの。
気に入ってくれて良かった。
私もあのダンゴムシは好きだ。
あの映画の醍醐味だと思っている。
デカイ弁当箱があれしか無かったから、ファンシーになったけど、そこだけすまん。
心の中で雑に周へ謝りながら物色を続ける。
ちょうどあのダンゴムシの画集を見つけて、作った弁当を思い出しながらニヤつく。
コラムに書いてあった
『可愛いキャラ弁で愛情を伝えよう♡彼からの好印象で女子力もアップ』
あれは分かりやすくていい。ジオラマ作ってるみたいで楽しいし、周さんの評価もまずまず。やってみて正解だった。
(次はカブトムシの幼虫ニョッキがいいかな? カブトムシの幼虫はムチムチしてて可愛いからキャラ弁にうってつけだ。……それともゾンビ弁当?)
次の弁当に思いを馳せながらスマホで時計を見る。
電話してから30分ほど過ぎていた。
「そろそろ、時間的に丁度いい頃合かな」
本屋を出て冷えた体を包む熱気を感じながら、少し体を伸ばした澪桜。自分の会社とは反対の方向の道に視線を向けた。
微かに唇が弧を描く。
「……たまには私の方からクレストリンクに迎えに行ってやるか」
初めて行く周の職場。
澪桜の足取りは軽い。
(これでまた勉強して、溺愛される女に進化するんだ! もう拒否なんかさせないんだからね☆)
溺愛の意味もよく分からないまま、意気揚々とヒールを鳴らした。




