177話 淡い期待と盗み聞き
澪桜が居なくなってしまった席で彼女の残り香に胸が締め付けられた。
シャンプーと……何か石鹸のような香り。
静かにグラスへ口を近づけた三村の傍に、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべた田端が寄って来る。
目線も合わせずハイボールを味わいながら三村は口を開いた。
「何だよ。今度は向こうから追い出されたのか?」
「違うよぉ〜。三村お前、聞いらぞぉ〜?」
まだ若干呂律が回っていない田端。
なんの事かわからない三村は気にせず料理に手を付ける。
「……安達さんに会うためにわざわざ今日来たんらって? ……ほんとは不参加だったはずらのにぃ?」
ピクっと肩を揺らした。
どこからともなく漏れた情報……幹事の服部とは仲がいいが、こんな奴に漏らすはずは無い……なのに何故。
ここで反応すれば、このバカの思うつぼだと思った三村は素知らぬ顔で冷奴を食べた。
「なんだそのデマ情報。いつまで学生気分なんだよお前ら」
「へぇ〜? 惚れてる訳じゃねえのぉ? だからさっき俺を退けたんやない? へへへ」
「向こう行けよ」
イラッとした三村は少し鋭く田端を睨みつけた。
怖い怖いとオーバーリアクションをしながら三村の肩を叩き、そっと耳打ちする。
「別にどっちれもいいけど。安達さん、本当は婚約なんてデマらしいぜ? なんか男出来なさすぎれ、AI画像を人だと思い込んで婚約したって皆に言いふらしてるんらって」
子供みたいな噂に呆れて三村はため息をついた。
「んな訳あるか。……誰情報だよバカが」
「親友の……香西さんだよ」
顔色を変える。
安達さんと香西さんが親友だったのは誰もが知る事実。その彼女が言ってる……?
まさか……本当に?
塵ほどの微かな光が三村に希望を与えてしまう。
こんなこと喜ぶべきでは無いのに、そんなはずは無いのに。
そう思うのに、澪桜への気持ちがまた膨れ上がっていく。
卑怯だと、最低だと知りながら。
「じゃあなぁ、報告だけしといてやったれ~」
呂律の回らない口調のまま、田端はひょこひょこと向こうに帰って行った。
ガヤガヤと騒がしい店内で三村は汗をかくグラスを握りここに居ないはずの彼女の名前を呟いた。
「……安達さん」
***
「おトイレおトイレ〜♪」
パタパタとトイレに向かおうとしたら悦ちゃんこと、服部の母に呼び止められた。
「あ、澪桜ちゃんトイレそっちやないよ! うち改装して店内拡張したんよ。やけ、トイレはそこの通路右に曲がって左側ね!」
「おお、そうなんや! 知らんかった。ありがとうございます!」
元は倉庫だったはずの場所に通路が出来ていた。
そこを抜けてトイレに向かう。
男子トイレと女子トイレがそれぞれ個室で2つずつ。
それと右側にはちょっとした休憩スペース、更に突き当たりに喫煙所と書いてあるパーティションがあった。
(景気がいいんだねぇ)
なんて思いながらトイレに入る。
すると誰かがやって来る音がした。男女のようだ。
「あー! タバコ吸いたい」
「ここで吸えるらしいな」
扉越しに聞こえる声。
最近は喫煙所が少なくて喫煙者は肩身が狭いんだろうねぇ。
とそんなふうに同情しつつ用を足していると、会話が流れてくる。
「にしても綾音、お前安達さんの事相手しなくていいのかよ? お前が呼んだんだろ?」
優しそうな少し高めの、聞き覚えのある声
(この声は……確かゆっきー? そばに居るのは……綾音?)
さっさと戻った方がいいのに、耳が彼らの会話に集中してしまう。
「ええ? なんでよ」
「何でって……安達さん、寂しそうにしてたやん」
「別にそんなん、どうでもいいやん。もう話はしたし」
「酷っ! 親友なんやろ? もっと優しくしてやれよ」
「もーさー! 皆、口を揃えて親友親友って言うのやめてくれんかなぁ! 私、あんなのと親友になった覚えなんか、一度もないんやけど!」
澪桜は何も言えないまま、俯いた。
信じられなくて。
それでも2人の会話は続く。
「でも、高校の頃ずっと一緒にいたろ? 綾音達」
「それはあいつがいい引き立て役になってくれたからだよ。現に私かなりモテたし。それに澪桜と一緒にいたら皆優しいねーって褒めてくれるし。ただそれだけよ」
「ああー。そう聞くと、綾音らしいっちゃらしいな」
「でしょ? ……ていうか雪斗いつ離婚してくれるの? 私ずっと待ってるんだけど」
「……またその話かよ」
「慰謝料も養育費も一括で私が払ってやるけんさ。子供なんか大学費用まで出せば問題ないやろ? さっさと別れてよ」
「なかなか嫁さんが首縦に振ってくれないんだよ。それに子供の問題はそんな簡単なもんやないし」
「もう……いつもそうやってはぐらかすんやけん」
「てか、綾音もう懲りたんやないん? 結婚」
「! んなわけないやろ……私は欲しい物は必ず手に入れんと気が済まんの……ほらぁ早くぅ」
「ったく……仕方ないヤツやなぁ」
震える手で澪桜は個室のドアを開けた。
幸いにもパーテーションで向こうは見えない。
静かに扉を閉めて出る。
会話はもう聞こえてこない。
代わりに衣擦れが聞こえてくる。
すると、ちゅぱちゅぱと何かを吸うような音と、粘液のような粘っこい水音を合わせた不快な音が広がった。
荒い息遣いと共に。
「はぁ……もっと舌絡めてよぉ」
「綾音ぇ……可愛いよ」
パーテーションから綾音の激しさに押されるようにゆっきーがはみ出る。
彼の顔の前に綾音の後頭部が見えた。
キスを……しているのだろう。
それも激しい方の。
流石の澪桜でもそのくらい分かる。
彼と目が合いそうになった瞬間、澪桜は口を押さえて走り去った。
綾音の口紅を指で拭い、ゆっきーの動きが止まる。
「ねぇ、どうしたの?」
「いや……なんでもないよ。それよりさっきの話。なんで田端にあんなこと言ったんだよ」
「あんなことって?」
「安達さんが嘘ついてるって」
「あんな安物の指輪やネックレス見せびらかして、挙句の果てにはあんなAI画像と結婚? 信じられるわけないやん。今まで付き合ったことすら無いくせに。同窓会でマウント取ろうとするなって話やろ」
「主役を取られた気がして腹が立った訳ね」
「それだけやないよ。三村くん、前から澪桜の事好きやったみたいやし? 恋のキューピットしてやろうと思ったの。まぁ実際に婚約者おるならゴメンねって話やけど、婚約破棄になっても浮気する澪桜が悪いやろ」
スタスタと戻っていく綾音の後ろからついて行きティッシュで口紅を拭いながらゆっきーは呆れたように呟いた。
「女の嫉妬ほど醜いもんはないなぁ。それに、もうそろそろ……潮時かな」
そっとスマホを取りだして薄く口角を上げたまま、綾音との履歴を消していった。




