表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第六部:茉莉花編
69/70

六十九話

 沈黙が、部屋の隅々にまで染み込んでいた。


 茉莉花は、俊哉の言葉を正面から受け止めたわけではなかった。けれど目を伏せたまま、ただ黙っていた。その沈黙は、拒絶とも容認ともつかない、どこまでも痛みを孕んだものだった。


 俊哉は、しばらく彼女の顔を見つめたのち、ふたたびゆっくりと口を開いた。


「……僕は、子どもが望めなくても構いません」


 その言葉は、淡々としていながらも、どこか決定的な響きを帯びていた。


「あなたと一緒にいたい。ただ、それだけです」


 ふいに、茉莉花の肩がかすかに揺れた。

 彼女は視線を逸らし、首をふるふると振った。

 細く震えるその拒絶は、はっきりとした拒絶よりも、ずっと深い迷いを物語っていた。


 けれど俊哉は、その姿に静かに、鋭く言葉を投げた。


「……結婚したら、今のあなたを否定することになるから、ですか?」


 その一言に、茉莉花の肩がはっきりと揺れた。

 俊哉は、続きを重ねた。


「自分の足で立ってきたあなたを、周囲に媚びず、賢くあろうと努力してきたあなたを、守られたり、愛されたりすることで否定してしまうと――そう思ってるんですか?」


 言葉が、静かに鋭く、彼女の心の深いところに触れていく。

 茉莉花は答えなかった。けれどその沈黙が、言葉よりも雄弁に、何かを語っていた。


 俊哉は、ゆっくりと、呼吸を整えるように一度まぶたを閉じ、それから穏やかに言葉を続けた。


「……それは違うと思います」


 彼の声音が、やわらかく、けれど確かな力を帯びたものに変わった。


「僕は、昔のあなたを知りません。でも、知代さんから聞きました。あなたは、尋常小学校の頃から強くて、まっすぐで、かっこよくて、眩しかったって」


 茉莉花の睫毛がわずかに揺れた。


「あなたが強いのは、結婚できないからでも、子どもが望めないからでもない。……それは、あなた自身の強さであって、あなたがこれまで努力してきた証です」


 俊哉の言葉は、決して慰めではなかった。茉莉花の人生そのものを否定しないための、真剣な対話だった。


「結婚したからといって、あなたのこれまでを消すことにはなりません。あなたの価値が誰かと並んで歩くことで減るなんて、僕は一度だって思っていません」


 俊哉は、ふたたび一歩だけ近づいて、まっすぐに見つめる。


「――むしろ、僕は。そんなあなただからこそ、一緒にいたいんです」


 それは、ただの告白ではなかった。

 生きてきた過去ごと、これからをともに生きようとする者の、覚悟ある言葉だった。



 俊哉は、そっと声の調子を落とす。


「……ただ、一つだけ、あなたが言ったことで、誤りがあると思うんです」


 茉莉花が、目を伏せたままわずかに顔を動かした。


「昔、あなたは言いましたよね。『自分の心の傷は、自分で癒さなければならない』って」


 その言葉の記憶は、彼の中に今も鮮明に残っていた。


「そのときは、あなたが僕に言ったのだと思いました。……自分を憐れんで、人の気持ちをもてあそんでばかりいた自分への叱咤だと」


 俊哉は小さく息を吐き、そして静かに続けた。


「でも――違ったんですね。あれは……あなた自身に向けた言葉でもあった」


 ベッドに腰を下ろしている茉莉花の、細く撓んだ肩が、小さく揺れる。


「でも、僕はそうは思いません」


 俊哉はその前に、そっと片膝をついた。

 そして、顔を上げて彼女の目を探す。


 視線が交差した。その瞬間、俊哉の声が、ひときわ柔らかく、けれど揺るぎなく響いた。


「……もし、あなたが傷ついているのなら。僕は、その傷を癒したいと思う。あなたが……僕の傷を癒してくれたのと、同じように」


 茉莉花の目が、大きく見開かれた。


 俊哉の目には、あの頃とは違う、確かな光が宿っていた。何かに守られるのではなく、何かを守ろうとする者のまなざしだった。


「あなたが強いことは、もう十分知っています」


 ふっと、俊哉は微笑んだ。


「だから……たまには、弱みを見せてください」


 そして彼は、ゆっくりと両腕を広げた。


「――茉莉花さん。……おいで」


 一拍。そして、茉莉花は立ち上がるでもなく、意識するよりも早く、衝動のように――その胸に飛び込んだ。


 俊哉の腕が、彼女の背をそっと包む。


 もう何も言わなくてよかった。沈黙の中で伝わるものが、言葉よりも遥かに多くあった。


 秋の午後、うっすらと曇った窓の外では、風が庭の葉をやさしく揺らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ