六十九話
沈黙が、部屋の隅々にまで染み込んでいた。
茉莉花は、俊哉の言葉を正面から受け止めたわけではなかった。けれど目を伏せたまま、ただ黙っていた。その沈黙は、拒絶とも容認ともつかない、どこまでも痛みを孕んだものだった。
俊哉は、しばらく彼女の顔を見つめたのち、ふたたびゆっくりと口を開いた。
「……僕は、子どもが望めなくても構いません」
その言葉は、淡々としていながらも、どこか決定的な響きを帯びていた。
「あなたと一緒にいたい。ただ、それだけです」
ふいに、茉莉花の肩がかすかに揺れた。
彼女は視線を逸らし、首をふるふると振った。
細く震えるその拒絶は、はっきりとした拒絶よりも、ずっと深い迷いを物語っていた。
けれど俊哉は、その姿に静かに、鋭く言葉を投げた。
「……結婚したら、今のあなたを否定することになるから、ですか?」
その一言に、茉莉花の肩がはっきりと揺れた。
俊哉は、続きを重ねた。
「自分の足で立ってきたあなたを、周囲に媚びず、賢くあろうと努力してきたあなたを、守られたり、愛されたりすることで否定してしまうと――そう思ってるんですか?」
言葉が、静かに鋭く、彼女の心の深いところに触れていく。
茉莉花は答えなかった。けれどその沈黙が、言葉よりも雄弁に、何かを語っていた。
俊哉は、ゆっくりと、呼吸を整えるように一度まぶたを閉じ、それから穏やかに言葉を続けた。
「……それは違うと思います」
彼の声音が、やわらかく、けれど確かな力を帯びたものに変わった。
「僕は、昔のあなたを知りません。でも、知代さんから聞きました。あなたは、尋常小学校の頃から強くて、まっすぐで、かっこよくて、眩しかったって」
茉莉花の睫毛がわずかに揺れた。
「あなたが強いのは、結婚できないからでも、子どもが望めないからでもない。……それは、あなた自身の強さであって、あなたがこれまで努力してきた証です」
俊哉の言葉は、決して慰めではなかった。茉莉花の人生そのものを否定しないための、真剣な対話だった。
「結婚したからといって、あなたのこれまでを消すことにはなりません。あなたの価値が誰かと並んで歩くことで減るなんて、僕は一度だって思っていません」
俊哉は、ふたたび一歩だけ近づいて、まっすぐに見つめる。
「――むしろ、僕は。そんなあなただからこそ、一緒にいたいんです」
それは、ただの告白ではなかった。
生きてきた過去ごと、これからをともに生きようとする者の、覚悟ある言葉だった。
俊哉は、そっと声の調子を落とす。
「……ただ、一つだけ、あなたが言ったことで、誤りがあると思うんです」
茉莉花が、目を伏せたままわずかに顔を動かした。
「昔、あなたは言いましたよね。『自分の心の傷は、自分で癒さなければならない』って」
その言葉の記憶は、彼の中に今も鮮明に残っていた。
「そのときは、あなたが僕に言ったのだと思いました。……自分を憐れんで、人の気持ちをもてあそんでばかりいた自分への叱咤だと」
俊哉は小さく息を吐き、そして静かに続けた。
「でも――違ったんですね。あれは……あなた自身に向けた言葉でもあった」
ベッドに腰を下ろしている茉莉花の、細く撓んだ肩が、小さく揺れる。
「でも、僕はそうは思いません」
俊哉はその前に、そっと片膝をついた。
そして、顔を上げて彼女の目を探す。
視線が交差した。その瞬間、俊哉の声が、ひときわ柔らかく、けれど揺るぎなく響いた。
「……もし、あなたが傷ついているのなら。僕は、その傷を癒したいと思う。あなたが……僕の傷を癒してくれたのと、同じように」
茉莉花の目が、大きく見開かれた。
俊哉の目には、あの頃とは違う、確かな光が宿っていた。何かに守られるのではなく、何かを守ろうとする者のまなざしだった。
「あなたが強いことは、もう十分知っています」
ふっと、俊哉は微笑んだ。
「だから……たまには、弱みを見せてください」
そして彼は、ゆっくりと両腕を広げた。
「――茉莉花さん。……おいで」
一拍。そして、茉莉花は立ち上がるでもなく、意識するよりも早く、衝動のように――その胸に飛び込んだ。
俊哉の腕が、彼女の背をそっと包む。
もう何も言わなくてよかった。沈黙の中で伝わるものが、言葉よりも遥かに多くあった。
秋の午後、うっすらと曇った窓の外では、風が庭の葉をやさしく揺らしていた。




