六十八話
俊哉の低く抑えられた声が空気を裂いたその瞬間、まるで見えない何かが室内を一気に駆け抜けた。
茉莉花は、弾かれるように顔を上げた。
「……なんで……知って……」
それは息に近い小さな声だった。声にならない驚愕と羞恥、そして底知れぬ恐れが、震える唇からこぼれ出る。
「あなた……!」
綾子が思わず声を上げる。その響きには、驚きよりも咎めが強く滲んでいた。
けれど俊哉は、至極冷静にそれを受け止めたまま、淡々とした口調で答えた。
「誤解なさらないでください。彼女は、何も言っていませんよ。――僕の、ただの推測です」
その一言が返されたあと、家の中にひどく静かな時間が流れた。
茉莉花は何も言わなかった。ただ、顔を伏せ、視線を落とした。
そしてその沈黙が、俊哉の「推測」が事実であることを、誰よりも雄弁に語っていた。
守山は、しばし呆然としていた。けれど、やがてその表情に理解の色が浮かび、それが次第に軽蔑と怒りとに変わってゆく。
「……なぁんだ。そういうことか」
嘲るように鼻を鳴らすと、彼は茉莉花を一瞥し、綾子の方に視線を移した。
「……子が産めない嫁なんか、いらねえよ。そっちが黙ってたんだろ、おばさん。……どういうつもりだよ!」
綾子は「待って」と焦ったように声をあげたが、守山は聞く耳を持たず、憤然と草履を鳴らして玄関へ向かった。
戸に手をかけようとしたそのときだった。
「……お待ちください」
俊哉の声が背後からかかった。
その声音は冷ややかでありながら、どこか静かな力を孕んでいた。
守山が不快そうに振り返ると、俊哉は歩み寄り、声を落としてその耳元にささやいた。
「――この件、他言無用でお願いします」
守山が眉をひそめる。俊哉は、わずかに口元を緩めた。
「お宅の薬問屋、横浜銀行の第一支店から融資を受けていますよね。あそこの支店長は、うちの父です」
その一言に、守山の顔がみるみるうちに強張った。
「僕も、父には何も言いません。ただ、念のため。お立ち去りの前に、一言だけお伝えしておこうと思いまして」
俊哉の口調は、あくまで丁寧だった。だがそこに込められた意味は、あまりに明確だった。
守山は、短く肩を震わせた。目を逸らし、草履を履き直すと、もはや一言も発することなく、そそくさと門の方へと消えていった。
戸の閉まる音が静かに響いたあとも、誰ひとりとしてその場を動こうとはしなかった。
俊哉は、守山の消えた方に視線を向けたまま、ふう、と息をつくと、やがてゆっくりと茉莉花の方へ向き直った。
「……茉莉花さん。すみません、少し、二人だけでお話がしたいんです」
茉莉花は、やや遅れて顔を上げたが、何も答えなかった。目元は赤く腫れ、唇にはまだ微かな震えが残っていた。
俊哉はその様子を見てから、視線を綾子に向ける。
「お母様、ご無礼を承知でお願い申し上げます。彼女の部屋に通していただけませんか」
一瞬、時間が止まったようだった。
綾子は、呆然としたまま俊哉を見つめていた。
明らかに戸惑いが走り、口元がわずかに動く。未婚の娘の部屋に男を入れる――それがどれほど非常識で、家名に傷がつくとされることか。
それは「不道徳」でさえあった。
けれど。
「……二階に上がって、右です……」
綾子は、おろおろとした声で、それでもはっきりとそう告げた。
階段を上がる足音は、ふたり分。踏み板がわずかに軋む音が、やけに大きく感じられた。
茉莉花の手は、いまだ俊哉の指に包まれていた。力はこもっていなかったが、拒む素振りも見せなかった。
いまは何かを拒んだり、取り繕ったりするだけの力さえも残っていなかった。
俊哉は、廊下の右手にある扉をそっと開けた。
室内には、朝の陽が傾いて差し込んでいる。机の上には整えられた原稿用紙と、並べられた文庫本。棚には翻訳に使う英語の辞書。どれも、茉莉花の暮らしそのものだった。
彼女は何も言わず、まるで糸の切れた人形のように、ふわりとベッドの縁に腰を下ろした。
泣き疲れたような瞳。小さく肩が上下し、呼吸が浅く続いている。
俊哉は彼女の前に立ち、ほんの一瞬ためらいを見せたが、深く、静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。僕はあなたの秘密を、勝手に探り、推し量り、暴いてしまいました」
言葉は慎重に選ばれ、けれど一点の逃げもなかった。
「本来なら、触れるべきではなかった。聞くべきではなかった。……それでも、あなたの苦しみに目を向けずにいたことの方が、もっと……罪だと思ったんです」
その声は、かすかに掠れていた。
陽の光が二人のあいだに落ちる。まだ何も言葉を返さない茉莉花の横顔に、その光がそっと触れた。




