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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第六部:茉莉花編
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六十七話

 朝の空気は、どこかひんやりとしていた。窓の外では、庭の木々がかすかに揺れ、すすきの穂が陽を受けて淡く光っていた。


 茉莉花は、洗面のあとで薄い化粧を整えながらも、どこか胸騒ぎを拭えなかった。


 階下からは湯を沸かす音、台所を動く母の足音がしていたが、普段と同じようでいて、なにかが少しだけ違う気がした。


(……まさか)


 心によぎった予感は、階段を降りると同時に現実になった。


 玄関の格子戸が開き、低く太い男の声が響いた。


「いやあ、お久しぶりで。先生の具合はいかがですか?いやいや、ほんと、男手が足りないってときに頼れるのは婿だけですよ」


(……守山くん…)


 それを聞いた瞬間、茉莉花の足が止まった。


 廊下の奥、靴を脱ぎながら大股で上がってくる男の姿は、以前とまったく変わっていない。いや、むしろ以前よりも嫌な部分が増長して見えた。


「よう、おはようさん。朝から顔が見られるとは思わなかったな。やっと“恋人ごっこ”も終わったらしいじゃないか」


 守山は、にやりと薄く笑った。目元に油気がにじみ、押し込めたような声が廊下に響く。


「どうせ別れるくらいなら、最初から俺にしておけばよかったのによ」


 ふざけるような声音とは裏腹に、茉莉花の肩へ伸びた手が、ぞっとするほど無遠慮で、生理的な嫌悪が背筋を這い上がってくる。


 咄嗟に身を引こうとして、けれど足がすくんだ。肩にかかりかけた手を見て、唇が震える。


「……わたし、……あなたとは……結婚できません」


 か細い声だった。いつものような毅然とした拒絶ではない。押し殺したような、けれど紛れもない本心の言葉だった。

 守山の顔が、見る見るうちに曇った。


「はぁ? なんだって? まだ目が覚めないのか?」


 彼の声が一段高くなり、片眉が不快そうに吊り上がる。だが茉莉花は震えたまま、ほんのわずかに顔を上げた。


「……あなたが……嫌だからじゃ……ないの。……でも、ちゃんと、理由が……」


 それは、彼女なりの誠実さだった。


 すべてを語ることはできない。

 けれど、何も言わずに「結婚」という生涯の約束を交わすことは、自分にとっても、相手にとっても、誠実ではない――その思いが、今にもこぼれそうになった。


「茉莉花!」


 廊下の奥から、母・綾子の鋭い声が飛んだ。


 その声音は、これまでになくきつく、制するようだった。普段の見合いの場では見せたことのない、ひとつの焦りのようなものが混じっていた。


 茉莉花の言葉は、喉の奥で切られたように止まった。


 守山が鼻を鳴らし、不機嫌に腕を組む。その体がふたたび廊下に影を落とすなかで、茉莉花は一歩も動けなかった。


「……ごめんなさい。一人に、してください……」


 その声はかすれ、喉の奥で震えていた。

 返答を待つ余裕はなかった。廊下を踏みしめ、茉莉花は靴を手に取ると、しゃがむ間も惜しむように玄関でパンプスに足を滑り込ませる。


「おい……!」


「茉莉花!」


 呼び止める声が重なった。けれど、彼女の様子はいつもの茉莉花とは違い、二人はその背を追うことができなかった。


 茉莉花は戸を引き、外の空気を吸い込んだ瞬間、胸の奥から何かが堰を切ったように溢れ出した。


(――だめ……こんなところで泣いちゃ、だめ)


 そう思っても、もう止まらなかった。


 熱い涙が頬を伝い、目の前の景色がにじんでいく。庭の植木の緑も、門柱の黒塀も、すべてが歪んで、視界の中で揺れていた。


 ここにはいたくない――その一心で、彼女は門に向かって駆け出した。

 涙がとまらない。前が見えない。それでも立ち止まるわけにはいかなかった。


 そして、門をくぐろうとしたその瞬間――


「っ……!」


 誰かに、ぶつかった。


 柔らかくも、はっきりとした衝撃。

 彼女の身体がわずかに傾き、頭が相手の胸に当たった。


「ごめんなさい……!」


 顔も見ずに、声を絞り出し、茉莉花はその場を離れようとした。けれど――


 その腕が、そっと、しかし確かな力で掴まれた。

 指先は乱暴ではなかった。だが逃がす気もなかった。


 驚いて顔を上げた茉莉花の目の前に、見覚えのある輪郭が浮かび上がった。


 風に揺れる前髪、少し呼吸の乱れたような頬。

 秋の光の中に立っていたのは、俊哉だった。




 掴まれた手のぬくもりが、茉莉花の火照った頬にかすかに伝わった。


 「……泣いていい時と、泣いちゃいけない時がありますが、今日は前者でしょう」


 そう言って、俊哉は慣れた手つきで彼女の頬に触れた。指先がそっと涙を拭う。拭った端から、また新しい雫が落ちるのを、彼は何も言わずに受け止めた。


 「茉莉花さん、行こう」


 短く、けれど揺るぎない声だった。


 戸惑う彼女の手を取り、引く。茉莉花の身体はふとたじろぐように揺れ、かすかな抵抗がその掌から伝わった。だが彼女は、その手を振りほどくことはしなかった。


 引かれるまま、彼の背に追いつくように一歩、また一歩と歩き出す。


 ふたたび玄関の戸が開かれたとき、家の中にいた二人の大人は、まるで凍りついたようにその場に立ち尽くしていた。


 廊下に揃って立つ綾子と守山。守山の眉間には深い皺が刻まれ、綾子は唇をきゅっと結んだまま目を見開いている。


「またお前かよ!」


 守山の怒声が、室内の空気を裂いた。


「なんだよこれ、ふざけてんのか。もう別れたって言ってただろうが!」


 俊哉は一瞬も怯まなかった。茉莉花の手を離さず、静かに綾子の方を向いた。


「いいえ」


 その一言だけだった。


「……でも茉莉花、あなた、昨日――」


 言いかけたその台詞は、言葉にならなかった。


「こっちだって迷惑してるんだよ!」


 守山がまた怒鳴った。足を踏み鳴らし、怒気を帯びた声で言い放つ。


「いい加減にしてくれよ、もう。そうやって男をもてあそぶのはおしまいにして、俺と結婚しろ!」


 綾子が「守山さん……」と制そうとしたが、男は止まらない。


 茉莉花は、何も言わなかった。ただ、首を横に振った。

 頑なに、しかし弱々しく。肩が震えていた。


「……なんでだよ!」


 守山の叫びが家中に響く。

 その声を裂いたのは、俊哉の低い、鋭い声だった。


「――子が設けられないから、ですか」

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