六十七話
朝の空気は、どこかひんやりとしていた。窓の外では、庭の木々がかすかに揺れ、すすきの穂が陽を受けて淡く光っていた。
茉莉花は、洗面のあとで薄い化粧を整えながらも、どこか胸騒ぎを拭えなかった。
階下からは湯を沸かす音、台所を動く母の足音がしていたが、普段と同じようでいて、なにかが少しだけ違う気がした。
(……まさか)
心によぎった予感は、階段を降りると同時に現実になった。
玄関の格子戸が開き、低く太い男の声が響いた。
「いやあ、お久しぶりで。先生の具合はいかがですか?いやいや、ほんと、男手が足りないってときに頼れるのは婿だけですよ」
(……守山くん…)
それを聞いた瞬間、茉莉花の足が止まった。
廊下の奥、靴を脱ぎながら大股で上がってくる男の姿は、以前とまったく変わっていない。いや、むしろ以前よりも嫌な部分が増長して見えた。
「よう、おはようさん。朝から顔が見られるとは思わなかったな。やっと“恋人ごっこ”も終わったらしいじゃないか」
守山は、にやりと薄く笑った。目元に油気がにじみ、押し込めたような声が廊下に響く。
「どうせ別れるくらいなら、最初から俺にしておけばよかったのによ」
ふざけるような声音とは裏腹に、茉莉花の肩へ伸びた手が、ぞっとするほど無遠慮で、生理的な嫌悪が背筋を這い上がってくる。
咄嗟に身を引こうとして、けれど足がすくんだ。肩にかかりかけた手を見て、唇が震える。
「……わたし、……あなたとは……結婚できません」
か細い声だった。いつものような毅然とした拒絶ではない。押し殺したような、けれど紛れもない本心の言葉だった。
守山の顔が、見る見るうちに曇った。
「はぁ? なんだって? まだ目が覚めないのか?」
彼の声が一段高くなり、片眉が不快そうに吊り上がる。だが茉莉花は震えたまま、ほんのわずかに顔を上げた。
「……あなたが……嫌だからじゃ……ないの。……でも、ちゃんと、理由が……」
それは、彼女なりの誠実さだった。
すべてを語ることはできない。
けれど、何も言わずに「結婚」という生涯の約束を交わすことは、自分にとっても、相手にとっても、誠実ではない――その思いが、今にもこぼれそうになった。
「茉莉花!」
廊下の奥から、母・綾子の鋭い声が飛んだ。
その声音は、これまでになくきつく、制するようだった。普段の見合いの場では見せたことのない、ひとつの焦りのようなものが混じっていた。
茉莉花の言葉は、喉の奥で切られたように止まった。
守山が鼻を鳴らし、不機嫌に腕を組む。その体がふたたび廊下に影を落とすなかで、茉莉花は一歩も動けなかった。
「……ごめんなさい。一人に、してください……」
その声はかすれ、喉の奥で震えていた。
返答を待つ余裕はなかった。廊下を踏みしめ、茉莉花は靴を手に取ると、しゃがむ間も惜しむように玄関でパンプスに足を滑り込ませる。
「おい……!」
「茉莉花!」
呼び止める声が重なった。けれど、彼女の様子はいつもの茉莉花とは違い、二人はその背を追うことができなかった。
茉莉花は戸を引き、外の空気を吸い込んだ瞬間、胸の奥から何かが堰を切ったように溢れ出した。
(――だめ……こんなところで泣いちゃ、だめ)
そう思っても、もう止まらなかった。
熱い涙が頬を伝い、目の前の景色がにじんでいく。庭の植木の緑も、門柱の黒塀も、すべてが歪んで、視界の中で揺れていた。
ここにはいたくない――その一心で、彼女は門に向かって駆け出した。
涙がとまらない。前が見えない。それでも立ち止まるわけにはいかなかった。
そして、門をくぐろうとしたその瞬間――
「っ……!」
誰かに、ぶつかった。
柔らかくも、はっきりとした衝撃。
彼女の身体がわずかに傾き、頭が相手の胸に当たった。
「ごめんなさい……!」
顔も見ずに、声を絞り出し、茉莉花はその場を離れようとした。けれど――
その腕が、そっと、しかし確かな力で掴まれた。
指先は乱暴ではなかった。だが逃がす気もなかった。
驚いて顔を上げた茉莉花の目の前に、見覚えのある輪郭が浮かび上がった。
風に揺れる前髪、少し呼吸の乱れたような頬。
秋の光の中に立っていたのは、俊哉だった。
掴まれた手のぬくもりが、茉莉花の火照った頬にかすかに伝わった。
「……泣いていい時と、泣いちゃいけない時がありますが、今日は前者でしょう」
そう言って、俊哉は慣れた手つきで彼女の頬に触れた。指先がそっと涙を拭う。拭った端から、また新しい雫が落ちるのを、彼は何も言わずに受け止めた。
「茉莉花さん、行こう」
短く、けれど揺るぎない声だった。
戸惑う彼女の手を取り、引く。茉莉花の身体はふとたじろぐように揺れ、かすかな抵抗がその掌から伝わった。だが彼女は、その手を振りほどくことはしなかった。
引かれるまま、彼の背に追いつくように一歩、また一歩と歩き出す。
ふたたび玄関の戸が開かれたとき、家の中にいた二人の大人は、まるで凍りついたようにその場に立ち尽くしていた。
廊下に揃って立つ綾子と守山。守山の眉間には深い皺が刻まれ、綾子は唇をきゅっと結んだまま目を見開いている。
「またお前かよ!」
守山の怒声が、室内の空気を裂いた。
「なんだよこれ、ふざけてんのか。もう別れたって言ってただろうが!」
俊哉は一瞬も怯まなかった。茉莉花の手を離さず、静かに綾子の方を向いた。
「いいえ」
その一言だけだった。
「……でも茉莉花、あなた、昨日――」
言いかけたその台詞は、言葉にならなかった。
「こっちだって迷惑してるんだよ!」
守山がまた怒鳴った。足を踏み鳴らし、怒気を帯びた声で言い放つ。
「いい加減にしてくれよ、もう。そうやって男をもてあそぶのはおしまいにして、俺と結婚しろ!」
綾子が「守山さん……」と制そうとしたが、男は止まらない。
茉莉花は、何も言わなかった。ただ、首を横に振った。
頑なに、しかし弱々しく。肩が震えていた。
「……なんでだよ!」
守山の叫びが家中に響く。
その声を裂いたのは、俊哉の低い、鋭い声だった。
「――子が設けられないから、ですか」




