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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第六部:茉莉花編
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六十六話

 土曜の朝の霞ヶ関は、平日ほどの慌ただしさこそないものの、月末に向けた報告作業に追われる部署では、変わらずタイプライターの音が断続的に響いていた。


 大蔵省・第一課。俊哉は所用で同課に足を運び、同僚と短い確認を終えて廊下に出たところだった。細く曇った窓の向こうには、まだ肌寒い秋の光がわずかに射し、朝の庁舎をぼんやりと照らしている。


 と、その静寂を破るように、階下の内線電話が甲高く鳴り響いた。耳障りなほどけたたましい音だった。


(第二課……?)


 振り返ると、階段を挟んだ隣の執務室で若い事務員が受話器を取る様子が見えた。すぐに何かを聞き取り、戸惑うように顔を上げて誰かを呼ぶ。扉越しに洩れた声に、俊哉は思わず立ち止まった。


「――朝倉さん。お電話です」


 数秒後、白地のブラウスに灰青のスカート姿の茉莉花が、書類を脇に抱えたまま歩み寄ってくるのが見えた。髪はいつも通りにぴたりと結われ、表情にも化粧気はなかったが、その眼差しにはふだんよりいくらか張りつめたものが感じられた。


「朝倉です、失礼いたします」


 そう言って受話器を取った瞬間、その姿勢がふいに硬直する。受話口から聞こえる声は、俊哉の位置からは分からなかったが、茉莉花の表情がみるみるうちに蒼ざめていくのが分かった。


「……お父様が……」


 呟くようなその声に、隣にいた事務員が慌てて目を見開いた。


 茉莉花は受話器を置くと、小さく礼を言って身を翻し、上司の机に駆け寄って何事かを耳打ちした。手にした書類がかすかに揺れ、肩の呼吸が浅くなっている。上司は驚いたように瞬きをしたのち、静かに頷いた。


 そのまま、彼女は鞄をつかみ、早足に部屋を出る。廊下を横切るその足取りはいつになく速く、俊哉の脇を通り過ぎる際にも、一瞥もくれなかった。


 俊哉はその背に、何か声をかけるべきかと一瞬迷ったが、言葉が出てこなかった。ただ、彼女の動き――そのわずかな震えと、急くような気配が、心に不穏なものを残した。


   


 病院の正面玄関をくぐったとき、茉莉花の呼吸はすっかり乱れていた。


 受付に顔を見せると、すぐに看護婦が事情を察したように頷き、階上の一室へと案内してくれる。廊下を抜けた先、病室の扉の向こうから、聞き慣れた穏やかな声が洩れてきた。


「……ああ、大丈夫だ。まったく、歳のせいか、どうにも無理が利かなくなってな……」


 ふいに、茉莉花は足を止めた。息を整え、乱れた前髪を片手で撫でつける。そして、扉をそっと押す。


 そこには、ベッドの脇に肘をつきながら、苦笑を浮かべる父――朝倉慶一郎の姿があった。目尻の皺がいくぶん深くなったようにも見えるが、そのまなざしはいつも通り優しく、そして何よりも――生きていた。


「……お父様……!」


 茉莉花の声に、慶一郎は驚いたように目を見開き、それから困ったように笑った。


「なんだ、もう聞いたのか。綾子め、大げさに言ったんじゃないのか?」


 苦笑まじりの口ぶりだったが、声にはわずかに疲れが滲んでいる。背後には医師らしき人物が軽く会釈をして退室していった。


 茉莉花はベッドのそばまで駆け寄ると、その手を握った。


「何があったの……? また倒れたって……」


「ちょっとだけな。診療中に立ち眩みがしてね。念のため検査というわけさ。命に別状はないよ。……すまないな、心配かけて」


 その言葉に、茉莉花の瞳が揺れる。


「……でも、退院したばかりなのに……また……」


「思い切ってしばらく休むしかないな、まあすぐよくなるさ」


 頭を掻く父を前にして、茉莉花は胸に何かがせり上がるのを感じた。

 安堵なのか何なのか、自分でもうまく区別がつかない。

 ただ、その手を離したくなくて、もう一度、指を強く握り直した。




 夕刻、帰宅した茉莉花は、いつもよりゆっくりと玄関の引き戸を閉めた。


「……おかえりなさい」


 台所の奥から、綾子の声がした。茉莉花が上着を脱いで居間に入ると、母はすでに湯飲みに茶を注いで、ちゃぶ台の前に座っていた。


 ふだんなら、お客の噂話や見合い相手の名簿を持ち出すその手が、今日は何も持っていない。ただ両手を膝に置き、正面を向いていた。


 その姿勢に、茉莉花は少しだけ背筋を伸ばして向かいに座る。


「……お父様の様子は見たわね」


 綾子の口調は、いつになく抑えられていた。

 湯気の向こうで、母の表情は柔らかくも緊張に満ちていた。


「幸い、大事には至らなかったけれど……もう私たち、いつまでも頼っていられる年じゃないの」


 言葉の節々に、かすかな震えが混じる。茉莉花は、黙って母の声を聞いていた。


「あなたも……わかってると思うけど。お父様がもし、長く休まなければならなくなったら……病院の経営は、修吾の給料でまかなうしかないのよ」


「……ええ」


 茉莉花は静かに頷いた。兄・修吾は都内の大学病院で勤務医を務めている。家業を継ぐつもりはあっても、今はまだその時ではなかった。


「修吾に無理をさせたくないのよ。あの子は口にしないけれど、外勤のあとにまたこちらへ顔を出す生活、ほんとうに大変なはずだわ」


 綾子はそっと視線を落とした。


「そして……あなたのことも、心配なの。わたしたち親がいなくなったら、あなた、一人になってしまうじゃない。仕事をしてても、女の人は――やっぱり、寄り添える人がいないと、いざというときに……」


 その言葉は、茉莉花の胸の深いところに落ちた。


 いつもなら、見合いを強いる母の調子に、反発が込み上げたかもしれない。

 けれど今日は違っていた。そこには「いい縁談」や「家柄」といった言葉も、「あの人ならあなたにふさわしい」という上から目線の押しつけもなかった。


 ただ、老いと不安と孤独を少しずつ知っていく母親の、真顔の心配だった。


「……あなたが頑なに結婚を避けてきたのも、わかってるつもり。でもね、ほんとうに……一人で、これからも、ずっと生きていくつもり?」


 そう問われて、茉莉花は答えられなかった。

 湯飲みに浮かぶ茶葉を見つめながら、唇をかすかに動かしただけだった。


「……早瀬さんとは、どうなの?婚約のお話はないの?」


 ふいにその名を出された瞬間、茉莉花の指先がぴくりと動いた。

 目を伏せ、喉に何かがつかえたような息を飲み込む。


「……お別れ、しました」


 絞るような声だった。それ以上の言葉は、喉元にこみ上げても、形にはならなかった。


「……そう。……そうなのね」


 綾子は静かに、少しだけ肩を落とした。


 ふたりの間に沈黙が落ちた。風の音も、柱時計の音も聞こえない静けさの中で、どちらからもそれ以上の言葉は出なかった。


 けれど茉莉花は、今日の母の言葉が、心のどこかに残ることを、否応なく感じていた。

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