表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第六部:茉莉花編
65/70

六十五話

「……茉莉花が、明るくて、強くて、優秀だったのは――たぶん、尋常小学校の頃からだったんだと思います」


 湯呑をそっと卓に戻して、知代は静かに語り始めた。対面の俊哉は身じろぎもせず、まっすぐその言葉に耳を傾けていた。


「わたくしは、当時はまだ彼女とは親しくありませんでした。でも、名前はずっと知っていました。小さなころから目立つ子でしたから」


 思い出すように、知代は柔らかく笑みを浮かべた。


「縁談があるとかないとか、そんな噂が立っていた同級生の男子がいたんです。その子が、どこか得意げに茉莉花のことを語ったのを、わたくしは偶然耳にしたことがありました。どうせいつか俺の女になる、だなんて」


 俊哉が小さく眉をひそめた。知代は続けた。


「茉莉花は、そういうのを絶対に見逃しませんでした。ある日、彼の前で、はっきり私はあなたの所有物じゃないって言ってのけたんです。しかも、それを周囲の男子たちにも聞こえるように言って。あの時の彼女は、ほんとうに格好よかった」


 湯呑を指でなぞるようにして、知代の声は少しだけ落ち着きを帯びた。


「女だからって馬鹿にするなって、よく言っていました。勉強も運動も負けない、って」


 ふと、知代は少しだけ視線を下げた。


「わたくしと本格的に親しくなったのは、女学校に入ってからです。最初はね、彼女――恋の話をよくしてくれました。静かに、でもきらきらした目で。理想の人は、賢くて、自分の考えを尊重してくれる人。結婚しても、ずっと一緒に働き続けるのが夢なの、って」


 その口ぶりは、どこか遠くの記憶をやさしく撫でるようだった。


「――あの頃の茉莉花を、わたくしはかっこいいと思っていました。ほんとうに、自分の力で未来を拓こうとしている子だなって。……でも」


 言葉の調子が、少しだけ変わった。


「彼女が恋の話をしなくなったのは……十五のときでした」


 俊哉の目が、ふっと細められる。


「その頃、彼女は長く入院していたんです。とはいえ、彼女のお父様の経営なさっている病院ででしたから、家のことや治療のことに困ることはなかった。けれど……あれは、ただの病気じゃなかったように思います」


 知代の指が、そっと組まれた。


「退院してからの茉莉花は、変わっていました。恋の話も、結婚の夢も、二人で働くことへの希望も、まるでなかったことみたいに」


 声が、少しだけ低くなる。


「私は結婚しない、一人でも生きていける女性になるの――そう言ったんです。目を伏せて、淡々と、何の未練もないように」


 その時の言葉を、知代は今もはっきり覚えているようだった。


「強がっているんだって、すぐに分かりました。……でも、彼女はわたくしに、何も話してはくれませんでした」


 沈黙が、居間を包んだ。


 知代の言葉が終わると、室内に静寂が戻った。だが、俊哉の中では別の何かが、ゆっくりと動き始めていた。


 茉莉花が十五歳で入院したという話。退院後に、まるで何かを封じ込めるようにして変わってしまったという話。知代が語ったそれらの断片は、俊哉の記憶の中に眠っていたいくつかの場面と、ぴたりと重なっていった。


 ――「茉莉花さんの、一番の秘密を教えてもらおうかな」


 あのときの彼女の顔。ひどく怯えたように、けれど怒るでもなく、ただ黙って俯いたあの表情。


 ――「自分の心の傷は、自分で癒すことを学ばなければいけません」


 彼女がそう言ったときの目を、俊哉は今もはっきりと思い出せた。誰かを責めるでも、助けを求めるでもなく、ただそこに深い底があることを自覚して、それでも立ち続けようとするような、澄んだ眼差しだった。


 その記憶に導かれるように、俊哉の思考は段々と輪郭を持ちはじめた。


 一つの、可能性。


 彼女がなぜ、自分を拒み続けるのか。なぜ、誰かに好かれることすら許されないと考えているのか――。


 知代は、俊哉の表情の変化に気づいていた。だからこそ、口を開いたのかもしれない。


「……つい先日、茉莉花がわたくしに言ったんです」


 俊哉は静かに目を向けた。


「自分は誰かに好意を向けることも、向けられることも、許されない――そう、言っていました」


 その言葉が、胸に深く落ちた。


 俊哉は、その瞬間、自分の中でふわふわと浮かんでいた疑念が、確信に変わるのを感じた。

 それは決して証拠のある事実ではなかったが、彼女の言葉、態度、沈黙、そのすべてが一つの方向を指していた。


 ……茉莉花さんは、何かを背負っている。自分ではどうしようもない何かを。

 そして、それが彼女に「人を愛すること」を禁じているのだ。


 知代がようやく口を閉ざし、ほんの少し俯いた。

 俊哉は、静かに椅子を引いた。


「……知代さん。お話しくださって、ありがとうございました。……とても、大切なことを教えていただいたと思っています」


 深く頭を下げ、立ち上がると、廊下の扉を開ける。そこには、部屋の外で静かに待っていた孝太郎の姿があった。


「島田、……助かったよ。話せて、本当に良かった」


 孝太郎はにこりともせず、ただ一度だけ短く頷いた。

 俊哉は帽子を手に取り、玄関に向かって歩きかけた。


 ――そのとき。


「……早瀬さん」


 知代の声が、背後から呼び止めた。


 俊哉は振り返る。


 知代は、今にも泣きそうな顔をしていた。けれど、その目だけはまっすぐで、揺らいでいなかった。


「わたくしには……茉莉花に、手を差し伸べることができないんです。彼女は、わたくしには話してくれませんでした。……でも、あなたなら」


 その声は、祈るように震えていた。


 俊哉は、一瞬だけ不安に目を伏せた。胸の内では、茉莉花の拒絶がなおも生々しく疼いていた。


 けれど、次の瞬間、ふっと片眉を上げて、いつもの調子を装って言った。


「……それじゃあ、任務を拝命したということで。お任せください」


 軽口に見せたその一言の奥には、確かな決意があった。


 知代は、安堵のように小さく息を吐いた。


 秋の夜は深く、けれどその空気はどこか静かに澄んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ