六十五話
「……茉莉花が、明るくて、強くて、優秀だったのは――たぶん、尋常小学校の頃からだったんだと思います」
湯呑をそっと卓に戻して、知代は静かに語り始めた。対面の俊哉は身じろぎもせず、まっすぐその言葉に耳を傾けていた。
「わたくしは、当時はまだ彼女とは親しくありませんでした。でも、名前はずっと知っていました。小さなころから目立つ子でしたから」
思い出すように、知代は柔らかく笑みを浮かべた。
「縁談があるとかないとか、そんな噂が立っていた同級生の男子がいたんです。その子が、どこか得意げに茉莉花のことを語ったのを、わたくしは偶然耳にしたことがありました。どうせいつか俺の女になる、だなんて」
俊哉が小さく眉をひそめた。知代は続けた。
「茉莉花は、そういうのを絶対に見逃しませんでした。ある日、彼の前で、はっきり私はあなたの所有物じゃないって言ってのけたんです。しかも、それを周囲の男子たちにも聞こえるように言って。あの時の彼女は、ほんとうに格好よかった」
湯呑を指でなぞるようにして、知代の声は少しだけ落ち着きを帯びた。
「女だからって馬鹿にするなって、よく言っていました。勉強も運動も負けない、って」
ふと、知代は少しだけ視線を下げた。
「わたくしと本格的に親しくなったのは、女学校に入ってからです。最初はね、彼女――恋の話をよくしてくれました。静かに、でもきらきらした目で。理想の人は、賢くて、自分の考えを尊重してくれる人。結婚しても、ずっと一緒に働き続けるのが夢なの、って」
その口ぶりは、どこか遠くの記憶をやさしく撫でるようだった。
「――あの頃の茉莉花を、わたくしはかっこいいと思っていました。ほんとうに、自分の力で未来を拓こうとしている子だなって。……でも」
言葉の調子が、少しだけ変わった。
「彼女が恋の話をしなくなったのは……十五のときでした」
俊哉の目が、ふっと細められる。
「その頃、彼女は長く入院していたんです。とはいえ、彼女のお父様の経営なさっている病院ででしたから、家のことや治療のことに困ることはなかった。けれど……あれは、ただの病気じゃなかったように思います」
知代の指が、そっと組まれた。
「退院してからの茉莉花は、変わっていました。恋の話も、結婚の夢も、二人で働くことへの希望も、まるでなかったことみたいに」
声が、少しだけ低くなる。
「私は結婚しない、一人でも生きていける女性になるの――そう言ったんです。目を伏せて、淡々と、何の未練もないように」
その時の言葉を、知代は今もはっきり覚えているようだった。
「強がっているんだって、すぐに分かりました。……でも、彼女はわたくしに、何も話してはくれませんでした」
沈黙が、居間を包んだ。
知代の言葉が終わると、室内に静寂が戻った。だが、俊哉の中では別の何かが、ゆっくりと動き始めていた。
茉莉花が十五歳で入院したという話。退院後に、まるで何かを封じ込めるようにして変わってしまったという話。知代が語ったそれらの断片は、俊哉の記憶の中に眠っていたいくつかの場面と、ぴたりと重なっていった。
――「茉莉花さんの、一番の秘密を教えてもらおうかな」
あのときの彼女の顔。ひどく怯えたように、けれど怒るでもなく、ただ黙って俯いたあの表情。
――「自分の心の傷は、自分で癒すことを学ばなければいけません」
彼女がそう言ったときの目を、俊哉は今もはっきりと思い出せた。誰かを責めるでも、助けを求めるでもなく、ただそこに深い底があることを自覚して、それでも立ち続けようとするような、澄んだ眼差しだった。
その記憶に導かれるように、俊哉の思考は段々と輪郭を持ちはじめた。
一つの、可能性。
彼女がなぜ、自分を拒み続けるのか。なぜ、誰かに好かれることすら許されないと考えているのか――。
知代は、俊哉の表情の変化に気づいていた。だからこそ、口を開いたのかもしれない。
「……つい先日、茉莉花がわたくしに言ったんです」
俊哉は静かに目を向けた。
「自分は誰かに好意を向けることも、向けられることも、許されない――そう、言っていました」
その言葉が、胸に深く落ちた。
俊哉は、その瞬間、自分の中でふわふわと浮かんでいた疑念が、確信に変わるのを感じた。
それは決して証拠のある事実ではなかったが、彼女の言葉、態度、沈黙、そのすべてが一つの方向を指していた。
……茉莉花さんは、何かを背負っている。自分ではどうしようもない何かを。
そして、それが彼女に「人を愛すること」を禁じているのだ。
知代がようやく口を閉ざし、ほんの少し俯いた。
俊哉は、静かに椅子を引いた。
「……知代さん。お話しくださって、ありがとうございました。……とても、大切なことを教えていただいたと思っています」
深く頭を下げ、立ち上がると、廊下の扉を開ける。そこには、部屋の外で静かに待っていた孝太郎の姿があった。
「島田、……助かったよ。話せて、本当に良かった」
孝太郎はにこりともせず、ただ一度だけ短く頷いた。
俊哉は帽子を手に取り、玄関に向かって歩きかけた。
――そのとき。
「……早瀬さん」
知代の声が、背後から呼び止めた。
俊哉は振り返る。
知代は、今にも泣きそうな顔をしていた。けれど、その目だけはまっすぐで、揺らいでいなかった。
「わたくしには……茉莉花に、手を差し伸べることができないんです。彼女は、わたくしには話してくれませんでした。……でも、あなたなら」
その声は、祈るように震えていた。
俊哉は、一瞬だけ不安に目を伏せた。胸の内では、茉莉花の拒絶がなおも生々しく疼いていた。
けれど、次の瞬間、ふっと片眉を上げて、いつもの調子を装って言った。
「……それじゃあ、任務を拝命したということで。お任せください」
軽口に見せたその一言の奥には、確かな決意があった。
知代は、安堵のように小さく息を吐いた。
秋の夜は深く、けれどその空気はどこか静かに澄んでいた。




