六十四話
その日の庁舎の玄関先で、鞄の留め金を直していた孝太郎は前から走ってくる男に目をとめた。
「早瀬?」
その男は、普段の姿からは想像できないほど、情けない姿で、そして泣きそうな顔をしていた。
「……どうした?何かあったのか?」
俊哉は少し言いにくそうに目を伏せ、それから真正面から孝太郎を見た。
「今日、これから、君の家に寄らせてもらえないか。知代さんに、話がしたい」
孝太郎は一瞬だけ瞬きをした。理由を尋ねたかったが、それに答える余裕すら、目の前の彼にはないように思われた。
孝太郎は愛しい人のことを少し思い浮かべ――彼女がこんな様子の俊哉を見たらすぐに了承するだろうと思うと、静かに頷いた。
湯呑の湯気が静かに立ちのぼる。
居間には、三人での夕餉の名残がまだあった。皿は下げられ、食後の菓子と緑茶が卓上に置かれている。
つねが静かに家を後にしてから、俊哉は深く腰を正し、言葉を選ぶように口を開いた。
「知代さん……少しだけ、お時間をいただけますか。茉莉花さんのことを、お聞きしたくて参りました」
その一言に、知代は表情を曇らせることはなかったが、すぐには返答しなかった。
孝太郎の隣で、彼女は湯呑に手を添えたまま、少しだけ伏し目がちになった。
「これは情報交換ではありません。……茉莉花さんのことを、知りたいんです。……僕からの、個人的なお願いです」
俊哉の声音は静かだったが、ふだんの余裕ある調子とは明らかに違っていた。彼のまなざしには迷いがなく、ただ真正面から相手に向けられていた。
「茉莉花さんを……こんな言葉を使うのは、思い上がりかもしれません。でも、もし、彼女が苦しんでいるのだとしたら……僕は、助けたいんです」
その言葉に、知代はゆっくり顔を上げた。そして、ひとつだけ孝太郎の方へ視線を送る。
孝太郎は、ただ黙ってうなずき、音もなく立ち上がった。俊哉の肩に軽く手を置き、そのまま静かに部屋を後にする。
扉が閉まると、室内には静寂が戻った。しばしの沈黙ののち、知代はゆっくりと口を開いた。
「……ごめんなさい、早瀬さん。きっと、あなたが思っておられるほど、私は茉莉花のことを、すべて知っているわけではありません」
それは謙遜ではなかった。知代の言葉には、親友としての誠実さと、真実を語ることへの慎重さが滲んでいた。
「彼女の過去も、心の奥も、……ほんとうに大切なことは、本人が語らない限り、たぶん、誰にもわからない。でも、私も……茉莉花を助けたいんです」
そこで言葉を切り、知代は俊哉の目をまっすぐに見つめた。
「……早瀬さん。あなたは、茉莉花のことを……どう思っておられますか?」
その問いは、あまりに真っ直ぐで、静かだった。
俊哉の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
けれど彼は、答えなかった。
その代わりに、視線を落とし、指先を組んでから、静かに言った。
「……僕の気持ちを、彼女に押しつけるつもりはありません」
「……」
「もし、僕がいない方が、彼女が穏やかに過ごせるなら……それでいいと思っています」
知代の表情に、ふっと陰りがさした。だが、次の言葉が、静かにそれを払った。
「でも……僕に、彼女のためにできることがあるのなら。……僕は、それをやります」
その声音に、はっきりとした決意が宿っていた。
知代は、微かに目を伏せ、茶をひと口含んだ。そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました。では、私の知っていることを、お話しします。……ほんの少しでも、早瀬さんが彼女の力になれるなら、それは……きっと、茉莉花の救いになると思うから」
秋の夜は深まりつつあった。
窓の外、風に揺れる庭の木々が、かすかに葉音を立てていた。




