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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第六部:茉莉花編
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六十三話

 昼休み。廊下を渡る風が、書類の角を微かにめくった。午前の業務を終え、昼の賑わいが課内に戻り始めるなかで、茉莉花は自席でタイプを打つ手を止めていた。


 課長席から控えめな声が飛ぶ。


「朝倉さん、少し……お時間、いいかな?」


 眼鏡越しの視線が優しかった。人当たりの柔らかい第一課兼任の中年課長は、職員個々の性格にもよく配慮する人物だった。

 茉莉花は静かに立ち上がり、応接側の一角へと誘われる。


「いきなりで驚かせてしまうかもしれませんが……」


 課長は、椅子に腰を下ろすと、おもむろに前置きを置いた。


「来月から、第一課で女性職員の増員を検討していましてね。翻訳経験のある方がほしいということで、上からも朝倉さんの名前が挙がっているんです」


 茉莉花はまばたきをひとつだけして、静かに話を聞いていた。


「待遇も悪くない。今より基本給が一等級上がる。支給実績に応じた調整も検討中です」


 その言葉には、心がわずかに揺れた。

 給与が上がれば、母に頼らずに生きていける日も近づく。貯金もできる。衣食住も、学びも、未来も、もっと自分の手で選べるようになる。


 けれど、その瞬間、彼女の頭の中にある男の顔が浮かんだ。

 それは、第一課によく訪れる――彼女がいま、最も避けたい相手だった。


 そして、呼吸をひとつ整えるようにして、彼女は口を開いた。


「……ありがとうございます。身に余るお話ですが……私には、力不足です。今の課で、もう少し経験を積みたいと思っております」


 それは、決然とした声音だった。

 課長は少しだけ驚いたように彼女を見つめたが、静かに頷いた。


     *


 その会話の一部始終を、俊哉はすぐ近くの資料室の扉越しに聞いていた。


 扉は閉まっていたが、薄い扉の向こうから課長の声と茉莉花の答えが、ぼんやりと漏れていた。内容が明確に分かったわけではない。

 ただ、賃金に関する言葉と「第一課」「力不足です」「今の課で」――そうした断片が、十分な意味を与えていた。


 やはり彼女は、自分を避けている。

 それは分かっていた。返事をくれないこと、視線を合わせないこと、通路で足早に去ること――どれもが明らかな拒絶だった。


 けれど、そこに「昇給」という現実的な利益さえも絡んでいたとき、俊哉は初めて、それがただの気まずさではないのだと、肌で理解した。

 彼女は、賃金よりも、自分と距離を置くことを選んだ。


 そのことが、俊哉の中に妙な動揺を生んでいた。


 ──あれほど、距離をとることに慣れていたはずなのに。


 茉莉花の拒絶は、俊哉にとって、かつてないほど切実な意味を帯びていた。


 彼は無言のまま資料室の棚に手をかけ、目の前の原稿に視線を落とした。だが、そこに記された英文の意味が、しばらく頭に入ってこなかった。




 日が傾き始めた霞ヶ関。省庁の廊下には早くも人の流れが戻りはじめ、執務室の灯りが順々に消されてゆく。


 茉莉花は、いつものように誰にも声をかけず、私物の少ない鞄を手に取って席を立った。

 肩をすくめるようにして廊下を抜け、控えめな足音を忍ばせながら階段を下りる。

 誰にも気づかれないように――。


 だが、俊哉の目は、その背中を逃さなかった。


 たまたま書類棚の整理をしていた彼は、茉莉花の姿を視界の端に捉えるやいなや、何かを振り切るように机に戻り、慌ただしく書類と帳面を鞄に詰めた。

 肩から羽織ったジャケットの裾が乱れているのも気に留めなかった。


「茉莉花さん!」


 省庁の出入り口を出たところで、俊哉はようやく彼女に追いついた。


 けれど、茉莉花は振り返らなかった。まるで彼の足音さえ聞こえなかったかのように、歩みを早めていく。


「……少し、待ってくれませんか!」


 道の端に人通りは少なく、午後の残り香のような空気が街を包んでいた。


「どうして無視するのですか」


 俊哉の声には、これまでにない焦燥が混じっていた。


「あの夜、僕が全て話した時、軽蔑しないと、そう言ってくれましたよね」


 茉莉花は立ち止まらない。表情も見せないまま、さらに歩幅を大きくしていく。


「お食事の約束も……まだ、九月の分も……」


 俊哉はそれ以上言葉を継げなかった。

 茉莉花がようやく足を止め、ゆっくりと後ろを振り返ったからだった。


 肩で風を受けたように揺れる髪。秋の夕日が彼女の輪郭を浮かび上がらせ、その頬に微かに朱をさしているように見えた。


 そして彼女の目が――俊哉の姿を、じっと見た。


 彼は、かつてないほど乱れていた。

 いつもは整えられた髪は前髪が落ち、ジャケットの襟は片方がめくれたまま。

 ネクタイも少し曲がっていて、鞄は片手にずるりと下げられていた。

 それでも、俊哉はその姿のまま、まっすぐに茉莉花を見つめていた。


 茉莉花は、唇をぎゅっと結んだ。

 それから、静かに口を開いた。


「……あのとき、軽蔑しないと申し上げたのは、母のためです」


 俊哉は一瞬、眉を寄せた。


「母に、あなたと交際していると嘘をついていましたから……その役をお願いするには、あなたの気持ちを損ねてはいけないと思ったのです」


 茉莉花の声は、驚くほど淡々としていた。


「本心ではありません」


 俊哉の唇が、何かを言いかけて止まる。

 けれど茉莉花は、止まらなかった。


「もう、交際しているふりをする必要もありません。母には、私からきちんと説明します。これまで巻き込んでしまってすみませんでした」


 それだけでも、俊哉には十分に刺さる言葉だった。だが、茉莉花は最後の一言を、ゆっくりと、はっきりと告げた。


「……それから、あなたのことは」


 一拍。


「心底、軽蔑しております」


 俊哉の顔から、音もなく色が消えた。


 彼は何も言わなかった。ただ、まるで胸の奥で何かが崩れたような、そんな静かな表情で、茉莉花を見ていた。


 茉莉花はそれ以上言葉を重ねることなく、踵を返した。

 夕焼けの色が長い影を地面に伸ばしていた。

 彼女の歩みは迷いなく、振り返ることはなかった。

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