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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第六部:茉莉花編
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六十二話

 午後の陽が傾きかけたころ、茉莉花は本郷の町を早足で歩いていた。風に揺れる街路樹の葉が、肩口をかすめるようにして散っていく。けれどその涼しさも、頬を撫でる秋の光も、今の彼女には何の慰めにもならなかった。


 ──言わなければよかった。


 あんな言い方、しなければよかった。


 知代の顔が、帰りの道すがら幾度も浮かんでは消えた。驚いたような、傷ついたような、けれど最後まで何も言わずに見送ってくれた横顔。あれが最後の印象になるなんて、思ってもいなかったのに。


 自宅の玄関に辿り着いたとき、彼女はすでに気力をすり減らしていた。靴を脱ぎ、扉を閉めた音が、家の中に静かに響く。


「……ただいま」


 誰に向けるでもない声を落とすと、すぐに二階の自室へ向かおうとした。だが、ふと背後の居間から、新聞紙のめくれる音と、低く咳払いをする声が聞こえてきた。


「おかえり、茉莉花」


 それは父の声だった。朝倉慶一郎――ひと月前、長らく入院していた病院を退院し、今ではまた外来の診察に復帰していた。

 今日は日曜だというのに、午前中から往診に行っていたらしく、白衣ではなく少し皺の寄ったジャケット姿で、新聞を膝に乗せたまま椅子にもたれていた。


 穏やかな声音は、どこか疲れてはいたが、現役の医師としての熱をそのまま保っていた。茉莉花は軽く会釈しただけで、無言で階段を上がろうとした。


 だが、その背に慶一郎の声がかかった。


「少し、話せるかい? ……書斎で」



 陽の差し込む書斎。棚には古びた医学書と、どこか色あせた文芸書が並んでいる。机の上には使い込まれた万年筆と、読みさしの症例誌。


 茉莉花は、父の向かいの椅子に座った。机越しの距離が、かえって心の内を晒しすぎずに済むような、そんな空間だった。


 慶一郎は、一度咳払いをしてから言った。


「何度も言っているがね。茉莉花、君は君なりの生き方をしている。それは、十分に立派なことだと、私は思う。綾子もあれはあれで心配してるんだが……期待に答えようとしなくても、いいからな」


 その声には責める響きはなかった。ただ、娘への理解と尊重が、静かに込められていた。


 だが茉莉花は、しばらく沈黙したあとで、ようやく口を開いた。


「……ううん、そうじゃないの。お父様」


 それだけだった。自分を悩ませているのは、母のことだけではなかった。


 まなざしを机の木目に落としたまま、表情は読めなかった。けれどその声の奥には、押し込めた何かがありありと滲んでいた。


 慶一郎は、娘の言葉の続きを促すことはしなかった。

 茉莉花は椅子をそっと引き、立ち上がった。


「ごめんなさい。……少し、ひとりになりたいの」


 父はまた、ただ頷いた。


 自室に戻った茉莉花は、カーテンも閉めずにベッドに腰を下ろした。

 夕日が畳の上を斜めに染めている。明るすぎる色だった。胸の奥が重たく、体の芯がひどく冷えている気がした。


(どうして、あんなことを……)


 知代に投げつけた言葉、自分の中に生まれてしまった突き放す衝動。それがどうしようもなく悔しくて、情けなかった。けれど、それを抑え込む余裕が、今の自分にはなかった。


 目を閉じると、とある人の横顔が思い浮かんだ。けれど、その面影も、すぐに風のように散っていった。




 月曜の朝、霞ヶ関。空は曇天で、庁舎の外壁はまだ昨夜の雨をわずかに滲ませていた。厚い雲の向こうで陽は顔を出さず、街路樹の葉もどこか疲れたように揺れている。


 大蔵省の一角。国際文書第二課。


 朝九時を少し回った頃、茉莉花はいつもと変わらぬ姿で自席に着いていた。

 紺の地に小さな白花を散らしたワンピースに、きっちりと結った後れ毛のない髪。唇には色を差さず、目元には陰りがあった。


 けれど、その指は迷いなく動いていた。


 手元に広げられた英文報告書。その右端には赤鉛筆で小さな括弧が添えられ、下段の余白には仮訳のメモが手早く書き加えられていく。


 タイプライターに向かうと、その打鍵音はリズミカルで、一切の誤字も脱字もなかった。文体の抑揚や用語の統一性も完璧で、上司が校正にかけた際にも、彼女の訳にはほとんど修正の余地がないと知られている。


 課内でも「朝倉さんの訳はそのまま印刷に回せる」と冗談交じりに言われるほどだったが、茉莉花本人はそうした評判を気にすることなく、ただ黙々と文字を紡ぎ続けていた。


 ──仕事に没頭すれば、何も考えずに済む。


 それが今の彼女にとって、唯一の救いだった。



 昼の前、ひと仕事を終えて手を止めたときだった。茉莉花が一度目を伏せて次の資料に手を伸ばすと、そこに一枚の紙片が紛れているのに気づいた。


 見覚えのある筆跡。簡潔な罫線入りの便箋に、わずか一行だけ。


 ――「九月分の埋め合わせ、いかがでしょう。今週末、例の店にて」


 読み終えた彼女は、何の表情も浮かべずにそれをそっと引き出しの中へ滑り込ませた。


 翌日、廊下の角を曲がった先で、俊哉が彼女を呼び止めた。


「茉莉花さん、少しだけ……いいですか?」


 背の高い男は、どこか遠慮がちに間合いを取って立っていた。いつもの軽妙な笑みではなく、真面目な声音だった。


 茉莉花は、立ち止まりもせずに歩き続けた。まるで声が届かなかったかのように、何の反応も見せなかった。


 また別の日、課内に戻ると机の上に紙袋が置かれていた。中には、甘味処で出される焼き菓子がひとつと、添えられた短い文。


 ――「お疲れ様です。無理はなさらず。少し甘いものを」


 けれどそれも、茉莉花は一瞥しただけで、何も言わずに封を折って脇に置いたまま、何事もなかったかのように作業に戻った。



 俊哉は、声をかけるタイミングを変え、メモの口調を変え、距離感を微調整しながら、彼女の注意を引こうとしていた。

 けれど、それはすべて、茉莉花の中では「なかったこと」になっていた。


 挨拶さえ、返さない。

 言葉を発さない沈黙のなかで、茉莉花はひたすら指を動かし続けた。


 けれど、誰にも気づかれない場所――たとえば階段の踊り場、廊下の曲がり角、すれ違った直後の瞬間。

 彼女はいつも、ひそかに手をぎゅっと握り締めていた。白い指の関節がわずかに浮き、掌に爪が沈む。


 唇は堅く結ばれ、時にほんのわずか噛み締めるように震えていた。

 まるで、「答えてはいけない」と、自分に言い聞かせているかのように。

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