六十一話
十月に入ってもなお、横浜の町には夏の名残がしぶとく残っていた。日中は陽射しがじりつくように強く、夕刻には唐突に冷たい風が吹き抜ける。朝倉家の庭では、咲き遅れた秋桜と萩が並んで揺れていた。
その朝、茉莉花は机の引き出しから一通の手紙を取り出し、もう一度そっと封を開けた。淡い藤色の便箋に、知代らしい丁寧な筆致で綴られた招待の言葉が並んでいる。
――「日曜日、よろしければ、遊びにいらして。つねさんも楽しみにしています」
末尾に添えられた、どこか柔らかく、くすぐったいような筆遣い。それを見ていると、茉莉花の胸の奥に、じわりと温かいものが染みてきた。
村井家での一件――。知代を離縁させようとして呼び戻したにもかかわらず、知代と夫の強い愛によって家族の愚かな試みが失敗したという噂は既に近所で話題の種となっていた。
知代は、選ばれたのだ。孝太郎という男に、ひとつの誠実なまなざしを向けられた。そのことを、茉莉花は、嬉しいと思った。
それでも──
(……あの子は、ちゃんと手に入れたんだな)
心のどこかで、ぽつりとそんな思いが浮かんだ。幸福を比べるつもりはなかった。
けれど、あまりに静かに、自然に、知代が「守られる側」にいる姿を想像すると、自分が歩いてきた道との違いに、ふいに胸が詰まるような思いがした。
茉莉花は一度深呼吸をして、ペンを取り上げた。
――お招き、ありがとう。楽しみにしています。
簡素な返事ではあったが、言葉の端に小さな思いを込めて、封筒を閉じた。
*
日曜の午後、茉莉花は東横線を乗り継ぎ、本郷の住宅街へと向かった。道の両脇には金木犀の香りが漂い、時折吹く風に、甘やかな気配が混じる。
島田家の門をくぐると、ちょうど玄関先で靴を履いていた孝太郎と出くわした。
「あ……島田さん、こんにちは」
声をかけると、孝太郎は軽く顔を上げ、いつものように整った所作で一礼する。
「お忙しいなか、ありがとうございます。知代さんも楽しみにしておりました。私はこれから少し外出しますので、どうぞごゆっくり」
どこか柔らかくなったような表情に、茉莉花はふと目を細める。
「ふふ。ついに、気持ちが伝わってよかったですね」
わざと軽く口調を崩すと、孝太郎は目を瞬かせ、それから少しだけ口元を緩めた。
「……その節は、何かとお世話になりました」
短く、それだけ。けれど、その言葉の奥には、確かに照れと、感謝と、それから真っ直ぐな決意が感じられた。
茉莉花は頷き、少しだけ視線を外して言う。
「知代は、昔から、誰かに大切にされることに慣れてない子です。……だから、どうか、これからも」
言葉の続きを言い切る前に、孝太郎は帽子を軽く持ち上げるようにして、静かに答えた。
「はい。私なりに、ですが……大切にいたします」
その声音に、どこか揺るぎのない誠実さがあった。
茉莉花は、思わず微笑んでいた。
玄関の格子戸が閉じられ、足音が遠ざかっていくと、室内にはやわらかな光が射し込んだ。
「茉莉花」
奥の部屋から、知代が駆け寄ってくる。茉莉花は、その姿を見て思わず息をのんだ。
どこか、以前より顔色が明るくなっている。表情にははにかみが混じり、けれど凛としたまなざしは変わらない。
思わず手を伸ばし、抱き合うようにして肩を寄せる。
「ずっと会いたかったわ。……やっと、来られて嬉しい」
「私も。……元気そうで、ほんとによかった」
茶菓子の並んだ卓を挟み、茉莉花と知代は向かい合って座っていた。ふたりの間に流れる空気は柔らかく、時折ふっと笑いがこぼれる。
けれど、それは過ぎ去った学生時代の追憶というよりも、ようやく別々の場所で見つけた「自分の現在」を見せ合うような、そんな時間だった。
ふと、知代が湯呑を手に取りながら、視線をそらすように言った。
「ねえ、茉莉花。……例の、早瀬さんのことだけれど」
その名が出た瞬間、茉莉花のまぶたがわずかに震えた。だが、それを隠すように、彼女はすぐに表情を整えた。
「……なに?」
知代は慎重に言葉を選びながら続けた。
「まだ、お母様の前では……その、嘘をついてるの?」
茉莉花は、一瞬視線を落とした。そして、湯呑の縁に指先を添えたまま、静かに答えた。
「……ええ。母には、何も言っていないわ。いまも、付き合っていることになってる」
「じゃあ、早瀬さんとも……?」
茉莉花は目を伏せたまま、首をほんの少しだけ横に振った。
「……ほとんど、会っていないの」
それは嘘ではなかった。実際、彼女はこの一月、意図して俊哉を避けていた。省内で顔を合わせても、交わすのはごく短い、事務的な言葉だけ。
九月分の食事も、そして約束していない十月のそれも、「多忙」と「所用」の名のもとにすべて見送ってきた。
会えば、気持ちが揺らぐ――それを知っていたから。
けれど、そんな胸の内を知るはずもない知代は、かえって心配そうに眉を寄せた。
「……なにか、あったの?」
茉莉花は答えず、ただ静かに首を横に振った。けれどその沈黙が、かえってすべてを物語っていた。
「……茉莉花。あなた、早瀬さんのこと……どう思ってるの?」
その問いは、あまりに率直で、どこか無防備だった。
そんな彼女の言葉に、部屋の空気が揺れる。
茉莉花は、湯呑をそっと卓に戻し、そして、時間をかけてその問いに向き合うようにして答えた。
「……私は、誰かに好意を向けることも、向けられることも、許されないの」
その言葉の重さに、知代は思わず息をのんだ。
「……どういう意味? それって……」
続きを尋ねようとする知代の言葉を、茉莉花は遮るようにして立ち上がった。
「ごめんね。……でも、あなたには分からないわ」
その声音は、どこか冷たかった。けれど、それ以上に、痛みを孕んでいた。
「あなたはいま、島田さんと一緒にいられて、幸せでしょう? 誰かを信じて、信じられて、大切にされてる。……そういう人には、分からないのよ」
知代は動けなかった。彼女の言葉が責めているわけではないことは分かっていた。
けれど、その一言一言が、自分と茉莉花のあいだに横たわる、埋めようのない溝の存在を突きつけていた。
「……茉莉花……」
知代が手を伸ばしかけたとき、茉莉花はもう踵を返していた。
「今日は、ありがとう。元気そうで、本当に……安心した」
それだけを残し、玄関へと向かう背中は、どこか早足で、迷いを振り切るようだった。
*
格子戸が閉じられたあと、静けさが家の中に戻ってきた。
知代は、ひとり居間に取り残されていた。
机の上には、冷めかけたお茶と、ふたりで食べかけた栗羊羹が残されている。
先ほどまでの笑顔が、まるで幻だったかのように、空気はひどく静かだった。
知代は、茉莉花の言葉を反芻しながら、ただ呆然とその場に座っていた。




