六十話
秋風が吹き抜ける横浜の駅前。傾いた陽が西の空を染め、構内の屋根が金色に輝いていた。
「じゃ、僕はここで」
俊哉が改札の手前で足を止め、二人に向き直った。
「このあとは、邪魔しませんよ。用もあるんでね」
くすりと笑い、片手を軽く上げる。
「知代さん、また落ち着いたら、お宅に招待してくださいね」
「……はい」
知代が恥ずかしそうに笑い、孝太郎は少し照れたように目を伏せた。
俊哉はそんなふたりを一瞥してから、にやりと笑い――そのまま人混みに紛れて、振り返らずに歩き去った。
午後の列車は、ほどよく空いていた。
知代と孝太郎は並んで座り、車窓に揺れる街並みをぼんやりと眺めていた。
汽車の規則正しい音が、胸の鼓動と重なっていく。
「……迎えに来てくださって、ありがとうございました」
知代が静かに言った。
孝太郎は少し驚いたように彼女を見つめ、そして小さく首を振った。
「……あなたを失うかと思って……本当に、怖かった」
その声音は、かすかに震えていた。
「……手、握っても……?」
知代は一瞬、はっとして彼を見た。
けれど、すぐに目を伏せて、微笑んだ。
小さく、しかし確かに。
孝太郎は、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。
ふたりの指が、ゆっくりと絡む。
外の風景が、柔らかく流れていく。
島田家の門をくぐると、玄関先に人影が見えた。
「……お帰りなさいませ!」
待っていたのは、つねだった。駆け寄ってきた彼女は、知代の姿を見るなり、目に涙を浮かべて抱きしめた。俊哉から電話を受けたらしかった。
「心配しましたよ、ほんとうに……!」
思わず笑いながら、知代もその背にそっと腕を回す。
「……ごめんなさい」
「いえ、何も聞きません。戻られてほんとうによかった……」
涙声になりながらも、つねは頬をぬぐい、鼻をすすった。
孝太郎と知代は顔を見合わせ、ふたりとも自然に笑みをこぼした。
「それから……」
つねはくるりと背を向けると、台所の方を指差した。
「知代さまのお誕生日だと伺って、今日は少し張り切ってしまいましたよ」
食卓の上には、小さな白いケーキ。
生クリームの上には、苺がふたつ仲良く並んでいた。
その隣には、炊き立てのご飯と、季節の野菜を使った煮物、鯛の塩焼き――どれも素朴で、あたたかな香りに満ちていた。
知代は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥から、ぽろりと何かがこぼれ落ちそうになる。
「……知代さん、おめでとうございます」
その声は、どこまでもまっすぐだった。
(……こんな日が、来るなんて)
知代は胸に手をあて、静かに席についた。
小さな食卓の灯りのもと、温かな笑い声がゆっくりと戻っていく。
夜が更け、障子の外には虫の声だけが静かに響いていた。
並べられた布団の上で、知代と孝太郎は、並んで座っている。
そのあいだに流れる沈黙は、ぎこちなくもなく、どこかあたたかく――
まるで心と心がようやく、同じ鼓動を刻み始めたかのようだった。
「……先ほどは、渡しそびれてしまいました」
ぽつりと孝太郎が言い、懐から、小さな紙包を取り出した。
包みを開くと、中から現れたのは、桜の細工が彫られた櫛。光の届かぬ夜のなかでも、その柔らかな色合いは、まるで春の気配を宿しているかのようだった。
「……綺麗……」
知代は、小さく囁くように言い、それを胸に抱き締めた。
「ありがとうございます」
笑顔が、ほんのりと頬に灯る。
その姿を見て、孝太郎もまた、どこか照れたように視線を伏せた。
「俺のせいで、不安な思いをさせてしまいました。申し訳ありませんでした」
孝太郎の声は、低く、心の底からのものだった。
「いえ……」
知代は小さく首を振ると、膝の上に櫛をそっと置き、両手を握りしめるようにして言った。
「……私のほうこそ、疑ったこと、勝手に家を出てしまったこと……ごめんなさい」
そして、まっすぐに彼を見つめる。
「……それでも、やっぱり私は……孝太郎さまのお隣にいたいんです」
その言葉に、孝太郎はふと目を伏せたまま、息を吸い込む。
次の瞬間、知代の視界に、ひとしずく――涙が落ちた。
「……孝太郎、さま……?」
驚いて声をかけると、彼はただ微かに笑いながら首を振った。
「すみません。こんな顔、見せるつもりじゃなかったんですが……」
初めて見る孝太郎の涙に、知代の胸がきゅうっと締めつけられた。
そっと手を伸ばし、彼の頬に伝う涙を、指先で拭った。
「……孝太郎さま……」
その名を呼んだ瞬間、孝太郎は彼女の手を掴み、そのまま静かに、けれどしっかりと抱き締めた。
その腕の中で、知代は深く息を吐いた。
「……安心します」
胸元に顔をうずめながら、かすれるような声でそう漏らす。
「あなたが安心してくれるなら、俺は……いつでも、抱き締めていたい」
孝太郎の声はやわらかく、どこまでも穏やかだった。
静かに身体を離し、目を合わせる。
そこにあったのは、迷いのない信頼と、深く澄んだ愛情だった。
そしてふたりは、布団の上で、互いにそっと身を寄せ――
唇を重ねた。
それは、熱くも激しくもなく、ただ、確かにそこに生まれた、ふたりだけの永遠だった。




