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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
59/70

五十九話

 知代の声が消え入るように空気に溶けた瞬間、孝太郎は駆け寄っていた。


 その姿を止める者は、誰もいなかった。

 誰もが、その一言に息を呑んで動けずにいた。


 孝太郎はひざまずいて知代を抱き締める。


「……知代さん」


 その声は震えていた。

 それでも腕はしっかりと、彼女の背を包み込んだ。


「……俺も、同じです」


 知代は驚いたように目を見開き、身を引こうとした。

 けれど、孝太郎は抱き締めたまま、そっと頭を預けるように彼女に寄り添った。


「初めは、形式上の妻を求めていた。それは事実です。家庭というかたちだけが欲しかった」


 知代はわずかに肩を震わせたが、声は出なかった。


「あなたと時を重ねる中で、俺は……あなたを愛しく思うようになった」


 押し殺すような吐息のなかで、言葉が絞り出される。


「けれど、それを伝える資格は……俺にはないと思っていました」


 知代の体が、かすかに跳ねた。


 目を見開いたまま、まるで何かを否定したいように、震える唇が小さく動く。


 その瞳に、またひとすじの涙が宿ったとき――

 孝太郎は懐から、包みを取り出した。

 白い紙に包まれた、小さな長方形の包み。


「……誕生日、知らなくて、すみませんでした」


 そっと差し出された包みには、控えめな梅色の紐が巻かれている。


「遅くなってしまったけれど……これを、あなたに」


 知代は震える手でそれを受け取った。

 包みを開くと、淡いべっ甲色の、繊細な櫛が現れた。


 小さな桜の意匠が彫られている――彼女の、落ち着いた美意識にそっと寄り添うような品だった。


「誕生日は……今日ですが」


 知代はかすれた声で言った。

 孝太郎が瞠目し、誰よりも先に反応したのは、美世子だった。


「……!」


 少女の顔から血の気が引き、咄嗟に目を伏せた。

 薄く紅をひいた唇が、苦々しげに歪んだ。

 部屋には、誰の言葉もなかった。


 櫛を胸に抱く知代の前で、孝太郎は静かに言葉を継いだ。


「……知代さん」


 その声は、先ほどよりも低く、揺るぎのない響きを帯びていた。


「あなたのいない人生なんて、耐えられないと思いました。どうか……戻ってきてほしい。あなたを、心から幸せにしたい。そして……あなたの隣で、俺自身も幸せになりたい」


 その言葉に、知代は何かを答えようと唇を開きかけた。

 だが――それより早く、背後から声が飛んだ。


「半年以上にわたる白い結婚……島田さん、それは、あなたの希望によるものだったと聞いています」


 徳之助の重々しい声。場を切り裂くような冷静な口調に、部屋の空気がぴんと張り詰めた。


 「それは、十分に離婚事由に該当します。あなたには知代を引き止める正当性はありません」


 その言葉を受けて、孝太郎が何か言い返そうと息を吸った――

 だが、それに続いたのは、意外にも知代の声だった。

 小さく、けれどはっきりと通る声。


「……それは、孝太郎さまが……私を大切にしてくださったからです」


 誰もがその場で動きを止めた。

 知代の視線は、まっすぐに徳之助に向けられていた。


「……最初に出会ったとき、私はただ……形式のために必要とされるだけの存在だと思っていました。でも……日々を共にするなかで、孝太郎さまは、一言もそれを言葉にされなかったけれど……ずっと私を、守ってくださいました」


 その瞳には、もう迷いはなかった。


「私は……孝太郎さまをお慕いしております」


 凜としたその言葉が、空気にゆっくりと沈み込んだ。


 しんとした静寂の中で、山崎がそっと一歩、前に出た。


「……すべて、理解しました」


 淡い笑みを浮かべながら、山崎は深く一礼する。


「この縁談、私の方からお断りさせていただきます」


 徳之助とお静が同時に顔色を変えた。


「山崎さん、まだ……」


「よく言い聞かせますから!」


 お静の声はわずかに焦り、徳之助は片眉を上げて山崎を見据えたが――


 山崎は、振り返らずに言った。


「知代さんのことは、好ましく思っていました。けれど、彼女の気持ちを無視してまで話を進めるつもりはありません」


 そして、ふと知代と孝太郎に視線を向ける。


「何も知らずに話を進めてしまって、申し訳ありませんでした」


 誠実な謝罪。

 それは誰の心にもまっすぐに届く、静かな幕引きだった。


 山崎は丁寧に頭を下げ、襖を開けて去っていった。


 残された室内には、言葉にできない重苦しさが残った。

 まるで、誰もこの場をどう収めるべきか分からないような空気。


 そのときだった。


「さて」


 場違いなほど明るい声が響いた。


「島田、知代さん。……帰ろうか」


 俊哉が笑っていた。孝太郎は知代の手をそっと取り、知代もまた、小さく頷いた。

60 話


 秋風が吹き抜ける横浜の駅前。傾いた陽が西の空を染め、構内の屋根が金色に輝いていた。


「じゃ、僕はここで」


 俊哉が改札の手前で足を止め、二人に向き直った。


「このあとは、邪魔しませんよ。用もあるんでね」


 くすりと笑い、片手を軽く上げる。


「知代さん、また落ち着いたら、お宅に招待してくださいね」


「……はい」


 知代が恥ずかしそうに笑い、孝太郎は少し照れたように目を伏せた。

 俊哉はそんなふたりを一瞥してから、にやりと笑い――そのまま人混みに紛れて、振り返らずに歩き去った。


 午後の列車は、ほどよく空いていた。

 知代と孝太郎は並んで座り、車窓に揺れる街並みをぼんやりと眺めていた。

 汽車の規則正しい音が、胸の鼓動と重なっていく。


「……迎えに来てくださって、ありがとうございました」


 知代が静かに言った。

 孝太郎は少し驚いたように彼女を見つめ、そして小さく首を振った。


「……あなたを失うかと思って……本当に、怖かった」


 その声音は、かすかに震えていた。


「……手、握っても……?」


 知代は一瞬、はっとして彼を見た。

 けれど、すぐに目を伏せて、微笑んだ。


 小さく、しかし確かに。

 孝太郎は、そっと彼女の手に自分の手を重ねた。

 ふたりの指が、ゆっくりと絡む。


 外の風景が、柔らかく流れていく。




 島田家の門をくぐると、玄関先に人影が見えた。


「……お帰りなさいませ!」


 待っていたのは、つねだった。駆け寄ってきた彼女は、知代の姿を見るなり、目に涙を浮かべて抱きしめた。俊哉から電話を受けたらしかった。


「心配しましたよ、ほんとうに……!」


 思わず笑いながら、知代もその背にそっと腕を回す。


「……ごめんなさい」


「いえ、何も聞きません。戻られてほんとうによかった……」


 涙声になりながらも、つねは頬をぬぐい、鼻をすすった。

 孝太郎と知代は顔を見合わせ、ふたりとも自然に笑みをこぼした。


「それから……」


 つねはくるりと背を向けると、台所の方を指差した。


「知代さまのお誕生日だと伺って、今日は少し張り切ってしまいましたよ」


 食卓の上には、小さな白いケーキ。

 生クリームの上には、苺がふたつ仲良く並んでいた。


 その隣には、炊き立てのご飯と、季節の野菜を使った煮物、鯛の塩焼き――どれも素朴で、あたたかな香りに満ちていた。


 知代は、しばらく何も言えなかった。

 胸の奥から、ぽろりと何かがこぼれ落ちそうになる。


「……知代さん、おめでとうございます」


 その声は、どこまでもまっすぐだった。


(……こんな日が、来るなんて)


 知代は胸に手をあて、静かに席についた。

 小さな食卓の灯りのもと、温かな笑い声がゆっくりと戻っていく。




 夜が更け、障子の外には虫の声だけが静かに響いていた。

 並べられた布団の上で、知代と孝太郎は、並んで座っている。


 そのあいだに流れる沈黙は、ぎこちなくもなく、どこかあたたかく――

 まるで心と心がようやく、同じ鼓動を刻み始めたかのようだった。


「……先ほどは、渡しそびれてしまいました」


 ぽつりと孝太郎が言い、懐から、小さな紙包を取り出した。


 包みを開くと、中から現れたのは、桜の細工が彫られた櫛。光の届かぬ夜のなかでも、その柔らかな色合いは、まるで春の気配を宿しているかのようだった。


「……綺麗……」


 知代は、小さく囁くように言い、それを胸に抱き締めた。


「ありがとうございます」


 笑顔が、ほんのりと頬に灯る。

 その姿を見て、孝太郎もまた、どこか照れたように視線を伏せた。


「俺のせいで、不安な思いをさせてしまいました。申し訳ありませんでした」


 孝太郎の声は、低く、心の底からのものだった。


「いえ……」


 知代は小さく首を振ると、膝の上に櫛をそっと置き、両手を握りしめるようにして言った。


「……私のほうこそ、疑ったこと、勝手に家を出てしまったこと……ごめんなさい」


 そして、まっすぐに彼を見つめる。


「……それでも、やっぱり私は……孝太郎さまのお隣にいたいんです」


 その言葉に、孝太郎はふと目を伏せたまま、息を吸い込む。

 次の瞬間、知代の視界に、ひとしずく――涙が落ちた。


「……孝太郎、さま……?」


 驚いて声をかけると、彼はただ微かに笑いながら首を振った。


「すみません。こんな顔、見せるつもりじゃなかったんですが……」


 初めて見る孝太郎の涙に、知代の胸がきゅうっと締めつけられた。

 そっと手を伸ばし、彼の頬に伝う涙を、指先で拭った。


「……孝太郎さま……」


 その名を呼んだ瞬間、孝太郎は彼女の手を掴み、そのまま静かに、けれどしっかりと抱き締めた。


 その腕の中で、知代は深く息を吐いた。


「……安心します」


 胸元に顔をうずめながら、かすれるような声でそう漏らす。


「あなたが安心してくれるなら、俺は……いつでも、抱き締めていたい」


 孝太郎の声はやわらかく、どこまでも穏やかだった。

 静かに身体を離し、目を合わせる。


 そこにあったのは、迷いのない信頼と、深く澄んだ愛情だった。


 そしてふたりは、布団の上で、互いにそっと身を寄せ――

 唇を重ねた。


 それは、熱くも激しくもなく、ただ、確かにそこに生まれた、ふたりだけの永遠だった。

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