五十八話
「……知代さんと、話をさせてください」
孝太郎の声が、低く、はっきりと空間を貫いた。
徳之助の眉がぴくりと動き、視線が孝太郎に鋭く注がれる。
「それはできん」
言い放たれたその言葉には、家長としての絶対的な拒絶がこもっていた。
しかし、孝太郎は動じなかった。
「……失礼します」
それだけ言うと、孝太郎は靴を脱いで玄関の敷居をまたぎ、強く踏み出した。
「ちょっと!」
お静の声が鋭く響いたが、孝太郎はそのまま進む。
客間の襖を開ける。そこに、知代の姿はなかった。
畳の端に整えられた座布団。空の湯呑。
けれど、彼女がいた気配だけが、薄く残っていた。
孝太郎は迷わず廊下を曲がり、店の奥へと足を進める。
知代が、かつて暮らしていたあの部屋――女中部屋。
引き戸を開けると、薄暗い室内に、小さな人影がうずくまっていた。
(……知代さん)
その瞬間、孝太郎は息を呑んだ。
知代が顔を上げる。視線が合ったその一瞬、知代の目が見開かれた。驚きと戸惑い、そしてわずかな怯えがその瞳に浮かぶ。
「……孝太郎さま……?」
かすれるような声で、知代は名を呼んだ。
その背後から、俊哉が現れ、部屋を一目見て、思わず顔をしかめた。
彼は――過去に一度、同じような経験でもあったかのように――その部屋を見ただけで、全てを察したようだった。
小さな窓、煤けた障子、隅に置かれた古びた茶箱。
女中として過ごしていた知代の現実が、そこには静かに刻まれていた。
俊哉は深くため息をつき、扇子のように手を前にかざしてから、知代に向かって語りかけた。
「……知代さん」
声は優しく、それでいてまっすぐだった。
「先に、友人として謝っておきます。こいつは無愛想だし、思ったことも言わないし、どうしようもないぐらい不器用な男です」
「おい……!」
孝太郎が低く抗議するが、俊哉は振り返らない。
そこへ、廊下の奥から勢いよく足音が近づいてきた。
「勝手に上がるなんて何なんですの、一体あなたはどなたですの!」
お静が声を上げ、裾を押さえながら駆け寄ってくる。
その顔には怒気と困惑が入り混じっていた。
けれど、俊哉は一度だけ振り返り――目を据えた。
まるで氷をぶつけたような、鋭い一瞥。
お静は、その目に射抜かれたかのように、思わず言葉を飲んだ。
足を止め、表情を引きつらせたまま、口を開けたまま立ち尽くす。
その瞬間、二階の階段から軽い足音が響いてきた。
「なに、どうしたの……?」
振り返った孝太郎の視線の先に、美世子の姿があった。
華やかな紺の絣を纏い、髪をゆるく結ったその少女は、階段を下りきったところでぴたりと止まり、目を見張る。
美世子の表情が、はっとしたように凍りついた。
空気が張りつめ、誰もが動きを止めたまま、女中部屋の小さな空間に、緊迫した静寂が満ちていった。
俊哉が、ふっと視線を下げてから、もう一度まっすぐ知代の方へ向き直った。
その目は穏やかでありながら、決して逃げ道を許さぬ真剣さを湛えていた。
「……こいつが言わないから、僕が言います」
静かに、だが言葉には芯があった。
「知代さんに言わせるのは無礼だと分かっています。けれど、ここまで来て、聞かずにはいられない」
畳に座る知代の膝の上で、手が小さく震えた。
「……正直に答えてほしい。島田のことを、どう思っていますか」
ぴしりと空気が張りつめる。誰もが、息を飲んだ。
「あなたは……あの家で、不幸せでしたか?」
静けさの中で、知代の肩がわずかに揺れた。
視線は伏せられたまま。けれどその表情が、ほんの一瞬、怯えのように揺れる。
戸口に立つ孝太郎は、思わず一歩踏み出しかけたが、言葉を飲み込んだ。
知代の言葉を、聞きたかった。
畳に落ちた知代の影が、細く震える。
声が、小さく、小さく、空気をかすめた。
「……いいえ、私には、身に余る幸せだと思いました」
しばし間があった。
「……それなのに、それ以上を……求めてはいけないと思いました」
唇を噛むようにして、知代は最後の言葉を搾り出した。
「……裏切って、ごめんなさい」




