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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
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五十八話

「……知代さんと、話をさせてください」


 孝太郎の声が、低く、はっきりと空間を貫いた。

 徳之助の眉がぴくりと動き、視線が孝太郎に鋭く注がれる。


「それはできん」


 言い放たれたその言葉には、家長としての絶対的な拒絶がこもっていた。

 しかし、孝太郎は動じなかった。


「……失礼します」


 それだけ言うと、孝太郎は靴を脱いで玄関の敷居をまたぎ、強く踏み出した。


「ちょっと!」


 お静の声が鋭く響いたが、孝太郎はそのまま進む。


 客間の襖を開ける。そこに、知代の姿はなかった。

 畳の端に整えられた座布団。空の湯呑。

 けれど、彼女がいた気配だけが、薄く残っていた。


 孝太郎は迷わず廊下を曲がり、店の奥へと足を進める。

 知代が、かつて暮らしていたあの部屋――女中部屋。


 引き戸を開けると、薄暗い室内に、小さな人影がうずくまっていた。


(……知代さん)


 その瞬間、孝太郎は息を呑んだ。


 知代が顔を上げる。視線が合ったその一瞬、知代の目が見開かれた。驚きと戸惑い、そしてわずかな怯えがその瞳に浮かぶ。


「……孝太郎さま……?」


 かすれるような声で、知代は名を呼んだ。


 その背後から、俊哉が現れ、部屋を一目見て、思わず顔をしかめた。

 彼は――過去に一度、同じような経験でもあったかのように――その部屋を見ただけで、全てを察したようだった。


 小さな窓、煤けた障子、隅に置かれた古びた茶箱。

 女中として過ごしていた知代の現実が、そこには静かに刻まれていた。


 俊哉は深くため息をつき、扇子のように手を前にかざしてから、知代に向かって語りかけた。


「……知代さん」


 声は優しく、それでいてまっすぐだった。


「先に、友人として謝っておきます。こいつは無愛想だし、思ったことも言わないし、どうしようもないぐらい不器用な男です」


「おい……!」


 孝太郎が低く抗議するが、俊哉は振り返らない。


 そこへ、廊下の奥から勢いよく足音が近づいてきた。


「勝手に上がるなんて何なんですの、一体あなたはどなたですの!」


 お静が声を上げ、裾を押さえながら駆け寄ってくる。

 その顔には怒気と困惑が入り混じっていた。


 けれど、俊哉は一度だけ振り返り――目を据えた。

 まるで氷をぶつけたような、鋭い一瞥。


 お静は、その目に射抜かれたかのように、思わず言葉を飲んだ。

 足を止め、表情を引きつらせたまま、口を開けたまま立ち尽くす。


 その瞬間、二階の階段から軽い足音が響いてきた。


「なに、どうしたの……?」


 振り返った孝太郎の視線の先に、美世子の姿があった。

 華やかな紺の絣を纏い、髪をゆるく結ったその少女は、階段を下りきったところでぴたりと止まり、目を見張る。


 美世子の表情が、はっとしたように凍りついた。


 空気が張りつめ、誰もが動きを止めたまま、女中部屋の小さな空間に、緊迫した静寂が満ちていった。


 俊哉が、ふっと視線を下げてから、もう一度まっすぐ知代の方へ向き直った。

 その目は穏やかでありながら、決して逃げ道を許さぬ真剣さを湛えていた。


「……こいつが言わないから、僕が言います」


 静かに、だが言葉には芯があった。


「知代さんに言わせるのは無礼だと分かっています。けれど、ここまで来て、聞かずにはいられない」


 畳に座る知代の膝の上で、手が小さく震えた。


「……正直に答えてほしい。島田のことを、どう思っていますか」


 ぴしりと空気が張りつめる。誰もが、息を飲んだ。


「あなたは……あの家で、不幸せでしたか?」


 静けさの中で、知代の肩がわずかに揺れた。

 視線は伏せられたまま。けれどその表情が、ほんの一瞬、怯えのように揺れる。


 戸口に立つ孝太郎は、思わず一歩踏み出しかけたが、言葉を飲み込んだ。

 知代の言葉を、聞きたかった。


 畳に落ちた知代の影が、細く震える。

 声が、小さく、小さく、空気をかすめた。


「……いいえ、私には、身に余る幸せだと思いました」


 しばし間があった。


「……それなのに、それ以上を……求めてはいけないと思いました」


 唇を噛むようにして、知代は最後の言葉を搾り出した。


「……裏切って、ごめんなさい」

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