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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
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五十七話


 珈琲の湯気が、薄曇りの窓辺でゆらゆらと揺れていた。


 俊哉は、古びた木机にもたれながら、新聞を片手に足を投げ出していた。

 東京の郊外にあるこの下宿は、六畳間と小さな板の間に簡易な台所がついているだけの質素な造りだったが、一人で暮らすには十分だった。


 木製のラジオからは、音楽でもニュースでもなく、ただざらついたノイズが流れている。

 ふと、俊哉は新聞をたたみ、視線を天井へ向けた。


(……会っていないな、あれから)


 思い浮かぶのは、茉莉花の顔だった。大蔵省の廊下ですれ違ったときも、彼女はこちらに目を向けず、足早に通り過ぎていった。


(わかってるさ、きっかけは……あの日のことだろう)


 冗談だというごまかしが通用しないのは分かっていたが、ここまで徹底的に避けられるとは。


 「……どうかしてるな、俺も」


 唇の端に苦笑を浮かべ、煙草に手を伸ばしかけて、やめた。

 代わりに、まだ熱の残る珈琲を啜る。

 煎りの浅い豆の香りが舌に広がるが、味はどこか空虚だった。


 と、そのとき。


 玄関の戸を、控えめだがはっきりとした調子で叩く音がした。


「俊哉」


 低く落ち着いた声――だが、その声の奥に、張り詰めた緊張があることを俊哉はすぐに察した。

 新聞を脇に投げ出し、靴下のまま廊下を歩いて戸を開けると、そこに立っていたのは――


 「……島田?」


 思わず声に出た。


 孝太郎が、自分の下宿を訪ねてくることなど、これが二度目だった。

 前回は、ずっと言わずにいた父の死を伝えに来てくれた時だった。

 逆に言えば、それほどのことでもないと、うちには来ないはずだった。


 肩で息をし、手には一通の封筒。何かを呑み込んだまま、言葉を発しようともしない。


 俊哉は無言でそれを受け取り、廊下の光の中で封を裂く。


 一読したあと、手の中の便箋がかさりと鳴った。俊哉の指先から、力が抜けたように紙が落ちかける。


「……おい、これは……知代さんが?」


 孝太郎はうなだれたまま、動かなかった。

 俊哉は、深く息を吸い込み、迷いのない声で言った。


「今すぐ、横浜へ行くぞ」


「……行っても、無駄だ。彼女は……もう、決めたことだ」


「決めたって――それで引き下がるのか?」


 俊哉の目が細く鋭く光る。


「自分を責めたいなら後でいくらでもすればいい。だが、いま彼女が、あんたの言葉を待っているかもしれないと思わないのか?」


 孝太郎は、その言葉に肩を揺らした。


「彼女を……困らせるだけだ」


「困らせるのと、向き合うのは違う」


 俊哉は無言で上着を掴むと、強く腕を引いた。


「行くぞ、島田。お前は、まだ何も言っていない」




 横浜の町は、午後の陽が傾き始めた時間帯に差しかかっていた。商人たちの声が遠くに響き、紅殻格子の影が舗道に伸びていた。


「……ここだな」


 俊哉が言い、孝太郎は頷く。

 格子戸には見慣れた墨字の看板――「村井屋 呉服太物商」。


 孝太郎は、ほんの一瞬だけ立ち止まり、視線を戸の奥へ向けた。

 けれど俊哉は迷わずその戸を引いた。がらがらという音が、かつて知代が毎朝掃き清めていた土間に響いた。


 すぐに、足音が響いてくる。襖の奥がすっと開き、三人の人影が現れた。


 先に現れたのは、店主の村井徳之助。その後ろから現れたのは、お静――白茶の縮緬に身を包み、紅を薄く引いた口元にうっすらと笑みを浮かべていた。


 最後に、山崎が丁寧に控えめな礼をして現れた。黒い詰襟の制服姿が、どこかこの場に不釣り合いなほど真っ直ぐだった。


「……何のご用事で?」


 お静の声は柔らかだったが、明らかに冷ややかだった。

 まるで、場違いな客人が紛れ込んだような言い方だった。


 孝太郎は、答えを口にしようとした。けれど、喉がひとすじ鳴っただけで、言葉は出てこなかった。


 その代わりに、俊哉が前へ一歩進み、ぴたりと間合いを詰めた。


「島田知代さんが、ご主人の家から突然姿を消しました。書き置きを残して」


 語尾に鋭さが宿る。


「妻がいなくなったのなら、迎えに来るのは当然です」


 俊哉の声に、山崎の眉がわずかに動いた。


「……あなたが、知代さんのご主人ですか?」


 孝太郎が小さく頷くと、山崎の表情はきゅっと引き締まった。


 「そうでしたか」


 丁寧に一礼しながらも、その声音は静かに整っていた。


「ですが……半年間、夫の責任で白い結婚だった場合、離縁は法的にも倫理的にも正当と見なされることは、ご承知でしょうか」


 孝太郎の表情が強張る。

 徳之助は表情を変えず、腕を組んだままその言葉を黙って聞いていた。


「私は、知代さんが大切にされていなかったと聞いています」


 山崎はまっすぐに孝太郎を見据えた。


「私は彼女を――ちゃんと大切にできると思っています」


 言い切ったその声に、一瞬の静寂が落ちる。

 が、俊哉はゆっくりと一歩前へ出て、その空気を断ち切った。


「それは――知代さんが、そう言ったんですか?」


 山崎は、一瞬だけ戸惑ったようにまばたきをした。


「いえ……本人からは聞いていません。ただ、妹の美世子さんから」


 その言葉に、孝太郎の顔が変わった。

 彼女が最後に何も語らず、ただ立ち去った理由――そこに、美世子という名が重くのしかかる。


「……知代さんと、話をさせてください」


 その一言は、絞り出すように、それでもまっすぐだった。

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