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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
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五十六話

 霞が関の官庁街を抜けた石畳の道を、孝太郎は俊哉と並んで歩いていた。

 午前の会議を終えた帰り道、適当な話題に興じながら歩調を合わせていると、目の前にふと、華やかな色が差し込んだ。


 淡い藤色の小紋に、金糸の帯。

 手には編み上げの鞄を提げ、艶のある黒髪が風に揺れている。


「……美世子さん」


 孝太郎の口から漏れた声は、低く抑えられていた。

 美世子は、ぱっと顔を輝かせて微笑んだ。


「まあ、覚えていてくださって嬉しいわ、孝太郎さま」


 その声は、どこまでも礼儀正しく、しかも芝居がかった明るさを含んでいた。


 孝太郎のすぐ横を歩く俊哉は、少女の姿に視線を走らせたまま、少しだけ首を傾げた。誰だろう、という疑問が表情にうっすらとにじんだが、彼は何も言わなかった。


「お姉様が、どうしていらっしゃるかと思いまして」


 美世子の言葉に、孝太郎の眉がわずかに寄る。


「……お変わりなく、お元気です」


 短く、それだけを返した。

 声は淡々としていたが、その内には確かな警戒心が潜んでいた。


 かつて知代が「女中」として過ごしていた屋敷の、あの妹――

 彼女がこのように話しかけてくる意図が、孝太郎には読めなかった。


 一方、美世子は、そのそっけない返答に軽く目を細めた。


(……本当にそうかしら?)


 島田がどのような態度を取るか――それを見定めるために来たようなものだった。


「そう……よかったですわ」


 頷きながら、しばし間を取る。そして、わざとらしく思い出したように続けた。


「先週でしたかしら……お姉様のお誕生日。もう、お祝いはなさったのかしら?」


 何気ない風を装って投げかけられたその言葉に、孝太郎の表情がはっきりと変わった。


(……誕生日?)


 その言葉を聞いた瞬間、孝太郎の目が見開かれ、歩みがわずかに止まった。


 俊哉はそれを見逃さなかった。唇の端が面白そうに持ち上がる。


「おいおい、島田――知代さんの誕生日、知らなかったのか?贈り物、してないんだな。ほんとにお前ってやつは……」


 孝太郎は、眉間に皺を寄せたまま、美世子の方を見た。


「……教えてくださって、ありがとうございます」


 その一言は簡潔で、感謝というよりも義務感のように聞こえた。


 美世子は微笑みながらも、その響きの奥に温度の低さを感じ取っていた。

 そして、思わず彼の横顔をじっと見つめた。


 俊哉が軽く笑いながら、肘で孝太郎の腕をつつく。


「だったら、日曜にでも何か買いに行ってやればいいだろ。俺もつき合ってやるよ」


 孝太郎は、しばし考え込むように視線を落としたあと、静かに頷いた。


「……そうだな」


 その一言に、美世子の唇がわずかに固まった。


(……あれだけ冷たく見えたのに)


 誕生日も知らず、贈り物すらしていなかった――そんな彼が、すぐに何かを贈ろうとする。その様子からは、無関心ではない、むしろ……。


(お姉様を、大切に思っている?)


 胸の奥に、得体の知れないざらつきが走った。それと同時に、美世子はふと気づいた。


(けれど、心を通わせているとは、まだ言えない)


 誕生日を知らなかったこと。表情が揺れたこと。あの一瞬の戸惑い。


(だから、まだ……揺らせる)


 その思いを胸に、美世子は会釈し、軽やかにその場を後にした。

 その背を、孝太郎は黙って見送った。俊哉は一歩遅れて歩きながら、友の横顔をちらと盗み見て、なにか言いたげに唇を結んだ。





 文机の上に置かれた白い封筒は、何の飾りもなく、ただそこに静かに存在していた。

 孝太郎は手袋を外すことも忘れたまま、ゆっくりとその前にしゃがみ込んだ。

 封を開け、中から取り出された便箋には、四行――ただ、それだけが記されていた。


 静寂の中で、文字だけが冷たく突き刺さってくる。

 孝太郎は、視線を落としたまま、しばらく動けなかった。

 指先の感覚が失われていくような、微かな震えが腕の奥から広がっていく。


(……なぜ、気づかなかった)


 その問いは、心の内側で何度も反響した。

 思い返すのは、あの日、霞が関の前で出くわした少女の姿――


「先週でしたかしら……お姉様のお誕生日。もう、お祝いはなさったのかしら?」


 その問いに、言葉を失った自分。


 忘れていた。知らなかった。

 ただ、それだけのことが、彼女をどれだけ孤独にさせてしまったのか。


 書き置きの文面に滲んだ、ひたすら丁寧で、ひたすら遠慮に満ちた言葉。「別の方に嫁ぐことにしました」――まるで、取り替え可能な駒のように、自らを記していた。


(……違う)


 そう思いたかった。けれど、文字にされた意志の前では、打ち消す言葉も見つからない。

 孝太郎は、床に膝をついたまま、紙片を握りしめた。


(彼女は、俺よりふさわしい相手を選んだ)


 それは当然のことだ。地元で、彼女の夢を理解し、応援し、愛情を育んでくれる人――そんな相手のほうが、知代には合っている。


(それで……いいはずなんだ)


 けれど、胸の奥に押し寄せるこの痛みは、何なのか。

 身体の中心にぽっかりと空いた穴が、冷たい風を吸い込んでいくようだった。

 ようやく立ち上がり、ふらつく足取りで階段を下りる。


 玄関にあった包みを拾い上げる。中には、淡いべっ甲色の櫛――彼女の姿を思い浮かべながら選んだ、ささやかな誕生日の贈り物だった。


(こんなものを……渡す前に、気づくべきだった)


 胸の奥が、締めつけられる。


 孝太郎は、そのまま靴を履き、玄関の戸を開けた。

 秋の風が、強く顔を撫でる。


 向かう先は一つしかなかった。


 こんなとき、自分が言葉を吐ける相手――俊哉のもとだった。

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