表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
55/70

五十五話

 知代は自室の文机に置いた封筒をそっと手に取った。


 わずか四行の手紙――それだけが、孝太郎への最後の言葉だった。

 障子を開け、廊下を静かに抜け、玄関にそれを置いたとき、玄関の戸に触れる手が一瞬だけ震えた。


 けれど次の瞬間にはその手が静かに戸を引き、冷たい秋の風が頬に触れた。


 石畳の路地に、まだ誰の足音もない。知代はふたたび家の中を振り返ることなく、駅へと足を向けた。


 汽車の揺れはどこか心地よく、けれど落ち着かない。窓の外に広がる景色は、遠ざかっていく東京の街並みと、春の訪れにまだ及ばぬ灰色の空だった。


 横浜に着いたのは、午前の早い時間だった。

 見慣れていたはずの街並みが、どこか縁遠く感じられた。


 そして、旧道沿いのあの家――「村井屋」の格子戸が視界に入ったとき、知代は思わず足を止めた。


(……懐かしい、と思うはずなのに)


 格子戸にはかすかに霧がかかり、看板の「村井屋 呉服太物商」の墨字が、薄曇りの空に鈍く沈んで見える。


 反物の見本が飾られた窓、その内側には、変わらぬ商家の空気が漂っていた。

 かつて、毎朝この前で箒を手にし、掃き清めていた石畳。


 あまりに見慣れていたはずの景色が、今はもうどこか別の人のもののように感じられる。

 知代は唇を引き結び、静かに引き戸をがらりと開けた。


「……ただいま戻りました」


 その声が、土間に吸い込まれる。


 奥から現れたのは、お静だった。

 薄紫の紬を纏い、扇子を手に、紅をひいた唇がにたりと笑った。


「ふん、帰ってきたのね。いいことだわ」


 その言葉に続いて、美世子が顔を出す。女学校の制服の襟をきっちり整え、紅を薄くひいたその口元が、勝ち誇ったように緩む。


「お姉様、お帰りなさいませ。……やっぱり、そうなると思ってましたわ」


 その声に、知代は何も返さなかった。ただ、小さく頭を下げた。


 後ろから徳之助の足音が響く。


「……戻ったか。まあ、いい。とにかく今すぐ荷を解かずに、そのまま客間で待っておれ」


 知代が顔を上げると、徳之助は眉間に皺を寄せたまま続ける。


「山崎を呼んでくる。お前と話がしたいそうだ。せいぜい失礼のないようにな」


 知代はただ「はい」とだけ答え、言われるまま客間へと通された。


 床の間には墨絵の掛け軸、菓子鉢の置かれた小机。空気は冷え、外からの光もほとんど差し込まない部屋だった。


 ここもまた、変わっていない。けれど、座布団に腰を下ろした瞬間、知代の胸の奥で、きゅっと小さな音がした。


(戻ってきた……けれど)


 そこにあるのは、懐かしさではなかった。

 ただ、終わっていたはずの過去の重みが、また静かに肩にのしかかってきたのだった。




 三十分ほど待っただろうか、客間の襖がすっと開いた。


「失礼いたします」


 現れたのは、すっきりとした細身の青年だった。

 詰襟の学生服を端正に着こなし、髪は短く刈り揃えられている。顔立ちは真面目で、少しだけ神経質そうな印象もあるが、その目元には穏やかな誠実さが滲んでいた。


「お久しゅうございます。尋常小学校のとき以来ですので、もしご記憶になければご容赦ください」


 深く頭を下げたあと、山崎は静かに座布団の端に腰を下ろした。


 知代も頭を下げながら「覚えております」と応じた。

 その一言に、山崎の表情がわずかに和らぐ。


「……あの頃から、あなたはとても聡い方でした。授業中、先生の言葉を先に読み取って、周りに教えていたのをよく覚えております」


「……そんなことは」


 知代は視線を伏せたが、口元がわずかに動いた。


「ご無理を申し上げて呼び立てるような形となり、誠に恐縮です」


 山崎は慎重に言葉を選ぶように続けた。


「お父上から、いろいろと話を伺っております。……嫁ぎ先で、ご不自由があったと」


 その言葉に、知代の指がぴくりと震えた。

 けれど彼女は何も答えず、俯くだけだった。


 山崎は一瞬ためらいを見せたが、知代の沈黙を尊重したように話題を変える。


「……お疲れなのではありませんか。ご実家に戻られたばかりで、きっとお身体もお心も落ち着きませんでしょう。私はしばらく、お父上たちと話しております。どうぞ、奥の部屋でお休みください」


 その声は押しつけがましくなく、どこまでも誠実だった。

 知代は再び頭を下げ、「ありがとうございます」とだけ答えた。




 ちょうどその頃、東京――島田家。

 昼前の陽光が、玄関先の石畳を柔らかく照らすころ、孝太郎は、紙包みを小脇に抱えて門をくぐった。


(どんな顔をして、受け取ってくれるだろうか)


 しかし、そんな彼の期待とは裏腹に、玄関を開けると家の中は静まり返っていた。


「……知代さん?」


 声をかけながら、靴を脱いで上がる。

 台所に気配はなく、茶の間にも人影はない。


(……おかしい)


 紙包みを持ったまま、居間を見回す。湯呑も箸も、朝のまま片づけられていない。


「知代さん?」


 もう一度呼びかける。返事はない。

 次の瞬間、孝太郎は急ぎ足で階段を上がり、二階の知代の部屋へと向かった。


 障子を開けると、室内は整えられたまま、人気がない。


 だが、文机の上に、一枚の封筒がぽつんと置かれていた。

 孝太郎の手から、紙包みが滑り落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ