五十五話
知代は自室の文机に置いた封筒をそっと手に取った。
わずか四行の手紙――それだけが、孝太郎への最後の言葉だった。
障子を開け、廊下を静かに抜け、玄関にそれを置いたとき、玄関の戸に触れる手が一瞬だけ震えた。
けれど次の瞬間にはその手が静かに戸を引き、冷たい秋の風が頬に触れた。
石畳の路地に、まだ誰の足音もない。知代はふたたび家の中を振り返ることなく、駅へと足を向けた。
汽車の揺れはどこか心地よく、けれど落ち着かない。窓の外に広がる景色は、遠ざかっていく東京の街並みと、春の訪れにまだ及ばぬ灰色の空だった。
横浜に着いたのは、午前の早い時間だった。
見慣れていたはずの街並みが、どこか縁遠く感じられた。
そして、旧道沿いのあの家――「村井屋」の格子戸が視界に入ったとき、知代は思わず足を止めた。
(……懐かしい、と思うはずなのに)
格子戸にはかすかに霧がかかり、看板の「村井屋 呉服太物商」の墨字が、薄曇りの空に鈍く沈んで見える。
反物の見本が飾られた窓、その内側には、変わらぬ商家の空気が漂っていた。
かつて、毎朝この前で箒を手にし、掃き清めていた石畳。
あまりに見慣れていたはずの景色が、今はもうどこか別の人のもののように感じられる。
知代は唇を引き結び、静かに引き戸をがらりと開けた。
「……ただいま戻りました」
その声が、土間に吸い込まれる。
奥から現れたのは、お静だった。
薄紫の紬を纏い、扇子を手に、紅をひいた唇がにたりと笑った。
「ふん、帰ってきたのね。いいことだわ」
その言葉に続いて、美世子が顔を出す。女学校の制服の襟をきっちり整え、紅を薄くひいたその口元が、勝ち誇ったように緩む。
「お姉様、お帰りなさいませ。……やっぱり、そうなると思ってましたわ」
その声に、知代は何も返さなかった。ただ、小さく頭を下げた。
後ろから徳之助の足音が響く。
「……戻ったか。まあ、いい。とにかく今すぐ荷を解かずに、そのまま客間で待っておれ」
知代が顔を上げると、徳之助は眉間に皺を寄せたまま続ける。
「山崎を呼んでくる。お前と話がしたいそうだ。せいぜい失礼のないようにな」
知代はただ「はい」とだけ答え、言われるまま客間へと通された。
床の間には墨絵の掛け軸、菓子鉢の置かれた小机。空気は冷え、外からの光もほとんど差し込まない部屋だった。
ここもまた、変わっていない。けれど、座布団に腰を下ろした瞬間、知代の胸の奥で、きゅっと小さな音がした。
(戻ってきた……けれど)
そこにあるのは、懐かしさではなかった。
ただ、終わっていたはずの過去の重みが、また静かに肩にのしかかってきたのだった。
三十分ほど待っただろうか、客間の襖がすっと開いた。
「失礼いたします」
現れたのは、すっきりとした細身の青年だった。
詰襟の学生服を端正に着こなし、髪は短く刈り揃えられている。顔立ちは真面目で、少しだけ神経質そうな印象もあるが、その目元には穏やかな誠実さが滲んでいた。
「お久しゅうございます。尋常小学校のとき以来ですので、もしご記憶になければご容赦ください」
深く頭を下げたあと、山崎は静かに座布団の端に腰を下ろした。
知代も頭を下げながら「覚えております」と応じた。
その一言に、山崎の表情がわずかに和らぐ。
「……あの頃から、あなたはとても聡い方でした。授業中、先生の言葉を先に読み取って、周りに教えていたのをよく覚えております」
「……そんなことは」
知代は視線を伏せたが、口元がわずかに動いた。
「ご無理を申し上げて呼び立てるような形となり、誠に恐縮です」
山崎は慎重に言葉を選ぶように続けた。
「お父上から、いろいろと話を伺っております。……嫁ぎ先で、ご不自由があったと」
その言葉に、知代の指がぴくりと震えた。
けれど彼女は何も答えず、俯くだけだった。
山崎は一瞬ためらいを見せたが、知代の沈黙を尊重したように話題を変える。
「……お疲れなのではありませんか。ご実家に戻られたばかりで、きっとお身体もお心も落ち着きませんでしょう。私はしばらく、お父上たちと話しております。どうぞ、奥の部屋でお休みください」
その声は押しつけがましくなく、どこまでも誠実だった。
知代は再び頭を下げ、「ありがとうございます」とだけ答えた。
ちょうどその頃、東京――島田家。
昼前の陽光が、玄関先の石畳を柔らかく照らすころ、孝太郎は、紙包みを小脇に抱えて門をくぐった。
(どんな顔をして、受け取ってくれるだろうか)
しかし、そんな彼の期待とは裏腹に、玄関を開けると家の中は静まり返っていた。
「……知代さん?」
声をかけながら、靴を脱いで上がる。
台所に気配はなく、茶の間にも人影はない。
(……おかしい)
紙包みを持ったまま、居間を見回す。湯呑も箸も、朝のまま片づけられていない。
「知代さん?」
もう一度呼びかける。返事はない。
次の瞬間、孝太郎は急ぎ足で階段を上がり、二階の知代の部屋へと向かった。
障子を開けると、室内は整えられたまま、人気がない。
だが、文机の上に、一枚の封筒がぽつんと置かれていた。
孝太郎の手から、紙包みが滑り落ちた。




