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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
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五十四話

 書き置きの簡素な文字と、同封された山崎の手紙。

 それらをもう一度封に戻しながら、知代は目を閉じた。


(……嫁ぎ先で冷たい扱いを受けている、なんて)


 胸の奥に、さざ波のような反発が起こる。孝太郎が、そんな風に自分を扱ったことなど、一度もない。

 寡黙で無口な人だが、何ひとつ不自由のないようにと気遣い、言葉を尽くし、礼儀を持って接してくれる。


 その一つ一つに、知代は何度、胸を熱くしたことか。


 けれど――


(それは、孝太郎様が……誠実な方だから)


 そう思った瞬間、胸の奥にひやりとした感触が落ちてきた。


 誠実な人は、誰に対しても誠実でいられる。

 思いやりも、丁寧さも、親切も――それはすべて「彼の本質」であって、決して「特別」ではないのだ。


(わたしが、ここにいて……それが、あの方の負担になってはいないだろうか)


 そっと自室の障子を開けると、外には庭の影が伸び、暮れかけた空に金木犀の香りが漂っていた。秋の匂いだった。


 風に当たりながら、知代は少しずつ、自分の心のなかを見つめはじめた。


(わたしがここに来てから……あの方は、本当に「楽」になったのだろうか)


 思い返せば、いくつも心当たりがあった。

 誕生日に贈ったあのインク瓶。あれを手にしてくれた時の、優しい、けれどどこか戸惑ったような表情。

 手を包んでくれたあの夜のぬくもり――けれど、何も言葉にされなかった沈黙。


(わたしは、あの人に恋をしてしまった)


 言葉にすることもなく、想いを伝えることもなく、ただ胸の内で温め続けていた感情。

 それが、日に日に色濃くなっていくことに、知代は気づいていた。


 あの方にとって、わたしは「穏やかに暮らせる相手」でしかなく、決して「愛される誰か」ではない。


(こんな……不純な気持ちを抱えたまま、隣にいるのは、あの方に対して失礼なのではないかしら)


(あの方は、きっと……誠意以上のものを求めてはいない)


 そして、自分はその誠意に応えることができるほど、まっすぐではないのかもしれない。


 ふと、手が小さく震えていることに気づく。


(だったら……)


 だったら、ここを離れるべきなのかもしれない。

 自分のような者は、そもそも、幸せなどに手を伸ばしてはならなかったのではないか。


 子どもの頃から、何ひとつ望むことを許されなかった。

 家の奥に押し込められ、物言わぬ存在として扱われてきた年月。


 そんな自分が、ようやく手にしたぬくもり――それが怖い。


(幸せ、なんて……)


 胸がきゅうっと縮む。


 ――こんなにもあたたかな日々が、ただ夢だったように思えるのなら、いっそ。


(いっそ、手放した方がいい)


 そう思えば、息が楽になる気がした。

 分相応の暮らしを、つつましく、ひっそりと選ぶことが、自分にはふさわしいのだと、知代はそっと胸の内で呟いた。




 その週の日曜日は、知代の誕生日だった。朝の空気は澄んでおり、障子越しの光はやわらかく、秋の気配がはっきりと肌に感じられた。


 つねは月に一度の休みで、朝餉の支度は知代が一人で担っていた。

 台所に立ちながら、煮物の香りが立ち上る鍋のそばで、知代はそっと耳を澄ませていた。


(気づいておられるだろうか……)


 あの人が――今日は、自分の誕生日であることを。そんなことを期待している自分に気づいて、知代は小さく首を振った。


 やがて、寝間から静かな足音が響き、孝太郎が居間に姿を現した。

 けれどその顔に、いつも通りの無表情が浮かんでいることに、知代は胸の奥がふっと冷えるのを感じた。


「朝食のご用意ができております。どうぞお召し上がりください」


 そう告げる声が、どこか自分のものではないように思えた。

 孝太郎は「はい」とだけ頷き、箸を取った。


 その間も、誕生日に触れる言葉はなかった。何か思い出す素振りもない。ただ静かに、口数少なく、食事を終えた。


(――やはり)


 心の底に、何かが落ちていく音がした。


「仕事に行ってきます。午後までには戻ります」


 日曜の朝だというのに、その声音にはまったく揺らぎがなかった。

 知代は伏し目がちに「はい」と応え、背を見送った。

 引き戸が静かに閉まり、足音が門を離れていく。


 知代はゆっくりと手をふき、奥の部屋へと戻った。四畳半の和室。畳も障子も、嫁いでくる際に新しくしてもらった。

 その一隅には、知代が少女のころから使い続けていた小ぶりの文机が、ぽつんと置かれている。


 ここに来てからの半年。寒さも、痛みもなかった。誰かに理不尽に怒鳴られることもなく、声を押し殺して涙を拭くこともなかった。


 けれど、それは――知代にとって、あまりに未知な幸福だった。


 静かで、あたたかく、何一つ不足のない暮らし。

 そのすべてが、いつか壊れてしまうのではないかと、ずっと、どこかで怯えていた。


 だからこそ、こんなにも心地よいこの空間が、自分に許されたものではない気がしてならなかった。


 文机の引き出しから、白い便箋を一枚、そっと取り出す。


 筆を取ると、知代の手が小さく震えた。

 伝えたいことは、山のようにあった。


 与えられた環境と思いやりに、どれほど感謝しているか。

 あの夜、そっと手を包んでくれたぬくもりのこと。

 この家の匂い、朝の光。


 けれど――


(そんなことを書いてしまえば、あの方の心を煩わせるだけ)


 わたしの心を残してしまえば、あの人はきっと困る。

 それならば、何も書かないほうがいい。


 知代は筆先を静かに落とした。

 短く、簡潔に。言葉を絞るようにして、書いたのは四文だけだった。


 ――実家に戻り、別の方に嫁ぐことにいたしました。

 ――その方が、わたしにとってふさわしい幸せであると思いました。

 ――あなたは形式としての結婚を望まれ、私は十分にその見返りをいただきました。

 ――勝手をいたしますこと、まことに申し訳ございません。どうかお元気で。


 筆を置いたあと、知代は深く息を吐いた。


 言葉にしてしまえば、もう戻れない。

 けれど、そうするしかないのだと、自分に言い聞かせるように、知代は手紙を丁寧に折りたたみ、封筒に収めた。


 その静かな所作は、まるで祈りのようだった。

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