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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
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五十三話

 美世子の影が門の向こうに消えてからも、知代はしばらく玄関の土間に佇んでいた。閉じた扉の向こうに、なお漂う香水の残り香。まるで残響のように、さきほどの囁きが胸の奥に染みついて離れなかった。


 ――分不相応な扱いをされて、勘違いしてしまったのね。


 そのとき、静かに脇へと回ってきたつねが、そっと声をかけた。


「先ほどのお嬢さん……お姉様と呼ばれていましたね」


 知代はびくりと小さく肩を揺らした。


「ご家族の方でしょう。よろしければ、わたくしに……何か、お話しいただけませんか」


 つねの声は柔らかく、決して踏み込むものではなかった。けれど、知代はそっと首を振った。


「……なんでも、ございません」


 その声音には、少しだけ、拒絶の気配が混じっていた。


「ご心配をおかけして、申し訳ありません。ただ、世間話をしていたです」


 つねはそれ以上、追及はしなかった。ただその手が、知代の肩に一度だけそっと触れ、すぐに離れた。


 その晩、知代は夕餉を終えると早々に寝室へと引き上げた。

 孝太郎の帰りを待たずに床に就くのは、ほとんど初めてのことだった。


(……お話ししたくないわけじゃないのに)


 布団のなかで、知代はそう思った。

 けれど、今夜の自分は、あまりにも脆く、言葉にすれば涙が先に零れてしまいそうで――ただ、目を閉じた。


 ほどなくして玄関の戸が細く開き、帰宅の気配が伝わってきた。


「……ただいま戻りました」


 声は、いつもと変わらない静けさだった。けれど、その夜の孝太郎もまた、何も言わず、知代の布団に背を向けるように横たわった。


 彼の胸にもまた、先日――省庁前で偶然顔を合わせた美世子に言われた言葉が、重たく沈殿していた。


(……あれは、ただの挑発に過ぎない)


 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に小さな鈍痛が残っていた。

 ふたりは隣り合いながらも、互いに一言も声を交わさず、ただ、灯の落ちた部屋に身を沈めた。


 夜の帳が下りていく。虫の声が、遠くから微かに響いていた。




 翌朝、空は薄曇りで、秋の気配を含んだ湿った風が本郷の坂を吹き抜けていた。


 知代は教科書の入った風呂敷包みを胸に抱え、師範学校の門をくぐる。いつもより少しだけ早足だったのは、気を抜けば心が崩れてしまいそうだったからだ。


 校舎の廊下に入ったところで、見慣れた顔が笑顔で振り返った。


「おはようございます、知代さん」


 ふっくらとした頬に、淡い紅が差している。

 知代は礼を返しながら、少し逡巡してから声をかけた。


「文子さん……ぶしつけなことをお訊きしますけれど」


 その言葉に、文子は少しだけ目を丸くした。


「ええ、なんでしょう?」


 ふたりは視線を交わしながら、校舎の奥まった階段の踊り場へと移動した。ちょうど授業前の喧騒からも少し離れた、小さな静寂がそこにはあった。


「文子さんは……どうやって、その……旦那様と、仲良くなられたのですか?」


 文子はほんの一瞬だけ言葉を失い、それから頬を染めた。


「まあ……」


 恥ずかしそうに笑いながらも、文子は小声で答えた。


「お見合いでしたので、最初はぎこちなかったですわ。母に言われるまま、お会いして、言われるまま嫁ぎました。ですけれど……最初の月は、毎晩台所で夜食を用意していたんですの。寒い夜なんて、熱いお味噌汁を出したりして……」


 ふっと、うれしそうに目を細める。


「それがある日、『こんなに優しくされたら、好きになってしまう』って、言われて」


「……まあ」


 知代は驚いたように呟いた。

 文子は照れたように笑いながら、そっと続ける。


「ええ。それから子供を授かって、二人の子だと思うとやっぱり愛おしくて」


 その表情は、誇らしくもあり、どこか柔らかく母親らしかった。


「やっぱり……そういうもの、なのですね」


 知代は小さく頷いたが、その言葉は、自分に向けたものでもあった。


(……見合いでも、時を重ねれば、自然に夫婦として心を通わせる)


 そう信じてきたはずだった。

 けれど、自分たちは――半年が過ぎても、まだ「妻」ではない。


(やっぱり、あの方は……)


 恋ではなく、愛でもなく、ただ「穏やかな暮らし」を望んでいた。

 美世子の言葉が、今また胸の奥で形を持ち始める。


 ――必要以上の交流はしたくないのに。


(わたしは……ただ、迷惑をかけていただけだったのかもしれない)


 文子の話が終わっても、知代の胸のなかには、喜びではなく、うすく湿った風だけが吹き抜けていた。



 夕暮れ時、師範学校からの帰途。秋の陽は傾くのが早くなり、坂道を下りる頃にはもう、道端の石垣に長い影が落ちていた。


 自宅へ戻ると、玄関先に一通の封筒が届いていることを、つねから告げられた。


「村井というお名前がありました。ご実家からかと……」


 差出人を見た瞬間、知代の胸の奥に、かすかな波紋が広がる。


 封は二重になっており、表には義父・徳之助の達筆な字で、


 《至急、戻ること》


 と、ただそれだけが、ぞんざいとすら言える筆致で書かれていた。


(……戻れ、と)


 たったそれだけで、再びあの家の空気が鼻腔を刺す。


 だが、その中にはもう一通、別の封筒が同封されていた。

 中を開けると、やはりそれは山崎からの手紙だった。

 内容は、簡潔ながら誠実なものだった。


 美世子から「知代が嫁ぎ先で冷たい扱いを受けている」と聞かされたこと。

 自分が今後教職に就く身であることと、知代の学びへの志を尊重すること。

 もし知代がこの先の暮らしに悩むのであれば、自分のもとへ身を寄せてほしいこと。


 そうした内容が、ただただ誠実に綴られていた。


 知代は静かに手紙を畳み、重ねて机の上に置いた。日がすっかり暮れ、庭先に虫の音だけが聞こえていた。

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