五十二話
半年前までの私なら、きっと引き受けていただろう。
そう、知代は思った。
家の奥に押し込められ、誰とも本心で話すことのできなかった、あの時代の自分にとっては、あのような人との縁談は、むしろ幸せなほうだったのかもしれない――と。
けれど。
「……それは、お受けできません」
その言葉は、知代の口から、確かにこぼれた。
美世子の目が、わずかに見開かれる。
「……なんですって?」
声に含まれた驚きは、演技ではなかった。
これまでの知代――美世子の命に従い、逆らうこともなく、淡々と指示を受け入れてきた、あの「使用人同然の姉」とは違う――その変化に、彼女は本能的な戸惑いを覚えたのだ。
「お姉様……あなた、自分の立場がわかっているの?」
声の調子が変わった。甘い皮を脱ぎ捨て、冷たい鋼のような響きがそこに現れる。
脅しだった。
けれど、それは知代にとって、もう過去の言葉だった。
目を伏せたまま、けれど唇を震わせることなく、知代は答えた。
「……私は、既に孝太郎様の妻ですので」
その言葉は、たどたどしくはあったが、確かな響きを持っていた。
だが、次の瞬間。
「……ふふっ」
笑い声が返ってきた。それは、乾いた、わざとらしい笑みだった。
「孝太郎様、ですって?」
美世子は口元に手を当て、まるで舞台の上の女優のように顔をしかめてみせた。その目には、憐れむような、いや、憐みさえを通り越したような、嘲りの色が浮かんでいた。
「ねえ、お姉様……本当に『妻』なの? それとも、それっぽく振る舞っているだけじゃなくて?」
知代のまぶたが、ぴくりと揺れた。
「――……?」
反応を見逃さなかった。美世子の目が、すっと細まる。
「あら……あたし、図星だったのかしら?」
追い打ちをかけるように、少しだけ声の調子を弾ませる。
「半年よ? ご結婚から。ふつう、契りを交わさないなんてこと、あると思う?いくらお見合い結婚だったとしても、それはやっぱり――失礼じゃない?」
知代の指先が、かすかに冷たくなるのを感じた。
否定したい。違うと言いたい。けれど、言葉が出てこない。
「……違います。孝太郎様は……わたくしのことを、思って……」
絞り出した言葉は、途切れがちに空気へ溶けた。
(――そう。彼は、無理をしないでいてくれているだけ。私を、大切に扱って……)
けれど、心の奥に横たわるもう一つの思い――あの人が求めているのは、ただ静かな暮らしだけ。恋も情もいらないと、初めからそう言っていたことを、知代は思い出す。
(……それでも、私は……)
気づいてしまった、自分の恋心。けれどそれは、相手にとって「想定外の感情」でしかないのだと、美世子の言葉が鋭く刺してくる。
「それにね……あたし、見に行ったのよ。霞が関に」
知代が、はっと顔を上げる。
「だって気になるじゃない。お姉様の旦那様が、どんな人か。ほんとうに立派な方なのか、ちゃんと見極めておかないとね」
その声の裏には、冷たい好奇心と明確な悪意があった。
「そしたらね……いたわよ。隣にいたお調子者って感じの人と話してた」
(――早瀬さん?)
心当たりは、あった。あの茶化すような物言いと、よく通る声。
彼の隣で孝太郎が話していた姿を、知代は容易に思い浮かべることができた。
「聞こえてきちゃったの、『プレゼントをもらって困ってる』って。……お姉様からでしょ? 誕生日に何かあげたって聞いてたし」
血の気がすっと引いていく。
確かに――贈った。心を込めて、迷いながら選んだあの青いインク。
「『必要以上の交流はしたくないのに』って、苦笑いしながら言ってたわ。困った奥さんをもらったものだって、そういう感じだった」
(――うそ、うそ……)
知代は、ぐっと唇を結んだ。
でも――俊哉と話していたのなら。
プレゼントも、確かに自分が贈ったものだから。
その会話は、嘘ではない。そう感じてしまう。
胸の奥に、何か重たいものがぽとりと落ちた。
(……あの人にとって、私は――)
ちょうどそのとき、引き戸ががらりと開く。
「おや、お客様ですか?」
つねだった。手に布包みを下げ、買い物帰りの明るい声が玄関に満ちた。
美世子は、くるりと笑顔をつくる。
「ええ、少しだけお姉様とお話しておりましたの。……そろそろお暇しますわ」
にこやかに会釈し、腰を折るその所作は、まるで礼儀正しい令嬢のようだった。
けれどその背を通り過ぎる直前、美世子はふと身を寄せるように近づいた。
「可哀想なお姉様……」
その声は、息のように小さく、つねには聞こえないように囁かれた。
「分不相応な扱いをされて、勘違いしてしまったのね」
唇だけが笑っていた。目は、まるで冷たい硝子のようだった。
そして、そのままさっさと振り返り、音もなく玄関を去っていった。
朱色の帯が、最後にふわりと風にたなびいた。




