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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第五部:知代編
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五十一話

「久しぶりね――お姉様」


 それは、花の香りにも似た甘さと、刃のような冷たさを秘めた声音だった。


 玄関先に立っていたのは、美世子だった。


 淡い紅藤色の小紋に、金糸の入った帯が華やかに結ばれている。襟元には細かなレースの飾り紐があしらわれ、呉服でありながらも、どこか西洋じみた意匠がちらつく。

 絹の質の良さが陽に照らされて艶やかに浮かび、手に持つ籐のハンドバッグには白いリボンが揺れていた。


 つややかな黒髪は耳の後ろできちりとまとめられ、飾り櫛がひとつ。塗香か、あるいは香水か、ふわりと香るその匂いすら、見栄と若さに満ちていた。


「……お嬢様」


 知代はそう言って、自然と一歩、身を引いた。

 自分の口からその言葉が滑り出た瞬間、胸の奥に凍りつくような感覚が広がった。


 お嬢様。

 それは、あの家で幾度も繰り返してきた呼び方だった。日々の給仕に、支度に、帳場の片付けに。家族ではなく、女中のように振る舞っていたあの頃の、体に染みついた言葉。


 この家に来てから、一度も口にしなかったはずだった。けれど今、その響きがあまりにも自然に口をついて出たことに、知代はひそかに息を詰めた。


「まあ、相変わらず礼儀正しいこと」


 美世子は扇子を唇に当て、わざとらしく微笑んだ。


「でも、もう『お嬢様』じゃないのよ? あなたのほうが、今は官吏の奥様でしょうに。ふふ――」


 扇の陰から覗く目が、悪意を包み隠そうともせず、まっすぐにこちらを見据えている。


「……どういったご用件で?」


 知代は微かに頭を下げ、戸口を半歩閉じかけた。家の内へ上げるつもりはなかったし、美世子もそのつもりはないと分かっていた。


「かわいそうなお姉様に、いいことを教えてあげようと思って、わざわざ来てあげたのよ」


 その響きは優しげですらあったが、そこにこめられた意図は鋭く尖っていた。


「村井家にね、縁談のお話があったの。ついこの間」


 美世子は扇子をぱたりと閉じ、胸の前でくるくると回す。


「まあ、私にはまったく似合わないお相手だったけれど――お姉様には、ちょうどいいんじゃないかと思って」


 知代は、ゆっくりと瞼を伏せた。

 何が来るか、おおよそ察しがついた。


「……私には、関わりのないことでございます」


 静かに、けれど確かにそう告げたその言葉は、礼儀の中にわずかな拒絶の色を含んでいた。それでも美世子は、全く怯まず、むしろ楽しげに笑みを浮かべた。


「やっぱり、馬鹿ねえ、お姉様って」


 その一言には、姉という言葉を敢えて強調する冷たい嘲りが込められていた。


「わからないの?だから教えてあげてるのに」


 そして、美世子は言った。


「山崎さん。お姉様も知ってるでしょう? 尋常小学校のときの同級生だったかしら?」


 その名に、知代の記憶が静かに揺れた。

 読書好きで、物静かな少年。学級で目立つほうではなかったけれど、誰に対しても穏やかで、何かと一人でいることの多かった。


「師範学校に通っているんですってよ。お姉様と気が合いそうでしょう?」


 美世子はわざとらしく瞳を輝かせてみせる。


「でも、私には無理。地味だし、会話もつまらないし、教員なんて忙しいだけで華もないし。だから、お姉様と結婚すればいいのにって、思ったの」


 その声音は軽やかだったが、その軽さこそが、知代の胸を深く沈ませた。


「それにね――お父様もお母様も、言ってたのよ」


 美世子は一歩、身を乗り出すようにして声を落とした。


「お姉様と孝太郎様のご結婚で、軍人さんとか、文官さんとか、そういう立派な人と縁ができるって、すごく期待してたの。中佐さんが店に来るたび、母なんて浮き足立ってたくらい」


 知代は、ほんの少し、息を詰めた。


「でも、結局、中佐さんは転勤で遠くに行ってしまったし、孝太郎様もそのご友人も、店には一度も顔を見せてくれなかった」


 美世子の声に、今度はほんのわずか苛立ちのような色が滲んだ。


「期待外れだったわって、母が言ってた。……やっぱり、お姉様には惹かれなかったのかしらね」


 その最後の言葉は、明らかに狙いすました一撃だった。


「でも、山崎さんなら、心配いらないわ。彼本人だけじゃなく、教える予定の学校の子供たちや親も客になってくれるかもしれないし。あなたのことも覚えていてそれなりに好印象らしいもの。ねえ、お姉様、引き受けてくれるでしょう?」

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