五十話
日曜日の午後。朝の雨はすっかり上がり、庭の萩が風に揺れていた。
茉莉花の家の玄関先に、俊哉の姿があった。
浅いグレーのスーツに薄いベージュのタイを合わせ、どこか休日らしい軽やかさを演出している。
引き戸が開くと、出てきたのは綾子だった。
小花模様のエプロンを着けたまま、俊哉を見るなりぱっと顔を綻ばせた。
「あらまあ、まあまあ……!ほんとうにお越しくださったのね、早瀬さん!」
「ええ、ぜひまた伺いたいと……僕のほうがお願いしました」
俊哉はいつものように軽やかに微笑んで、やや大袈裟にお辞儀をした。
その所作がなんとも品良く見えるのは、彼の持ち前の身のこなしのせいだろう。
「まあまあ、そんな丁寧に……上がって上がって。茉莉花、早瀬さんがおいでになったわよ!」
家の中へ声をかけながら、綾子は俊哉を引っ張るように玄関へ招き入れる。
俊哉は靴を脱ぎながら、すでに次の言葉を用意していた。
「萩や女郎花の手入れが行き届いていますね。素敵なお庭で羨ましいです」
「まあ……よく気づいたわね、うちの自慢なんですのよ。ええ、庭師の方に来てもらってるの」
「さすがです。庭を見れば、家の美意識が分かるといいますから」
言いながら上がり框を上がる俊哉の姿を、居間の入口に現れた茉莉花は腕を組んで眺めていた。
「……また始まったわ」
その表情は呆れ半分、感心半分。
けれど、頬が少し緩んでいるのを、綾子は見逃さなかった。
「茉莉花、ほら座ってちょうだいな。早瀬さん、あのお菓子……ほら、横浜でしか買えないのを用意してあるのよ」
「ああ、先日もいただいた馬車道小町ですね。栗の餡が入っていて、皮が薄くて……あれは絶品でした」
「まあ、覚えていてくださったの?うれしいわぁ」
綾子はもう目を細めている。
まるで実家に帰ってきた婿を出迎える姑のような満足げな空気を醸し出しながら、何度もお茶を注ぎ直そうとする。
「おかわりいかが?熱いほうがいいわよね?あら、甘すぎないかしら……茉莉花、お皿、あの藍のを出してちょうだい」
「お母様、落ち着いてください。お菓子は逃げませんから」
「でも、早瀬さんに失礼があっては大変でしょう?」
「……一番失礼なのは、今の台詞かもしれません」
そんな軽口が飛び交うなか、俊哉はただ柔らかく笑っていた。
まるでこの家に何度も通ってきた常連客のように、すっかり場に馴染んでいる。
その時だった。
綾子が、ふと思い出したように眉を上げた。
「そうそう、早瀬さんのご家族って……どんな方なのかしら。ほら、立派なご出世だし、ご実家もきっと――」
一瞬、茉莉花の指先が止まった。
畳の縁に置いていた茶托を持ち直す動きが、わずかに乱れた。
だが、俊哉は何も変わらない調子で――けれど、ほんの一瞬、茉莉花に視線を送ってから――さらりと答えた。
「普通の銀行員ですよ、父は。もう退職してますけど。……あまり仲が良いわけでもないので、最近は帰省もしません」
「まあ、そうなの?でも……そういうご関係も、いまは増えてるって聞きますものねぇ」
綾子がうなずきながら、おかわりの湯を急須に注ぐ。
その間、俊哉は何気ないように茶碗を茉莉花の前に差し出し、
そして、ほんの一瞬だけ、彼女の目を見て、にこりと笑った。
「大丈夫ですよ」――
そんな声が聞こえてきそうな、安心させる笑みだった。
茉莉花は、その表情をしばし見つめ、それからそっと目を伏せた。いつものように調子よく、けれど、その裏に静かな配慮を抱えた男の顔が、そこにあった。
日が傾きはじめた住宅街の道を、二人は並んで歩いていた。雨上がりの空気は澄んでいて、道端の金木犀が、ほんのりと甘い香りを漂わせていた。
茉莉花が小さく笑いながら言った。
「今日はありがとうございました。母があれだけご満悦なら、しばらくは攻撃も止みそうです」
俊哉もくすりと笑った。
「それは何より。あの勢いで結婚はいつ?なんて訊かれたら、命がいくつあっても足りません」
「私はそれが毎日なんですよ。本当に困ってしまいます」
ふたりの足元で、落ち葉が小さく音を立てる。肩が触れるほど近くはないが、風が吹けば会話が自然に届く距離だった。
しばらく歩いたあと、茉莉花がふと声を落とした。
「……でも、いつまでもこうして続けているわけにもいきませんよね、きっと。どうしましょうか……」
その言葉には、笑い混じりの軽さの中に、ほんの少しだけ本音がにじんでいた。
俊哉は、しばらく何も言わなかった。
そして、やや間を置いて、ぽつりと口にした。
「……別に、ずっとこのままでも、僕は構いませんけど」
それは、何気ないような調子だった。けれど、ほんの少しだけ声が低かった。
茉莉花の足が、ふと止まった。
その反応に気づいた俊哉は、すぐにいつもの調子を取り戻したように肩をすくめた。
「冗談ですよ、冗談。ね?」
その口元には、あの場を和ませるための笑みが戻っていた。
だが、茉莉花の耳には、最初の一言だけが、どこか別の音として残っていた。
駅の入り口が見えてきたころには、もう夕日が町を斜めに染めていた。
改札の前で足を止め、俊哉が軽く頭を下げる。
「今日は、ご馳走様でした。お母様にもよろしくお伝えください」
「……ええ。ありがとうございました」
俊哉はホームへと向かう階段を上り、やがて人混みにまぎれて見えなくなった。
その場にしばらく立ち尽くした茉莉花は、ようやく踵を返し、家とは反対の道をゆっくりと歩き出した。
「ずっとこのままでもいい」――
少し前なら、彼が同じ台詞を言ったとしても、きっと聞き流していた。
冗談として笑って済ませていた。
でも、今日のその言葉は、どこかで違って聞こえた。
だからこそ、茉莉花はゆっくりと息を吐いた。
ただ、内側で、何かを静かに閉じるような感覚があった。
これ以上、踏み込ませてはいけない。
そんなふうに、どこかで自分に言い聞かせていた。
夕暮れの路地を、茉莉花は一人、まっすぐに歩き続けた。




