四十九話
茉莉花の言葉が襖に吸い込まれるようにして静まり、再び雨音だけが戻ってきた。
俊哉は、しばらく目を伏せていた。手元の箸には触れず、ガラスの水差しを前にしてじっとしていた。
だが、次に彼が口を開いたとき、その声には微かな震えが混じっていた。
「……おっしゃる通りです」
短く、だがはっきりとした言葉だった。
「過去を理由にして、他人を遠ざけてきた。誰かに傷つけられたことを、別の誰かにぶつけるような真似をしてきた。……気づいていながら、認めようとしなかっただけです」
言いながら、俊哉の右手が、微かに震えていた。
長い指が卓の縁に触れ、かすかに力を入れるのがわかった。
「……ねえ、茉莉花さん」
そして、伏せたままの視線で、低く問いかけた。
「……僕を、軽蔑しましたか?」
その声音には、あの俊哉にしては不釣り合いなほどの、傷つきやすさがにじんでいた。
茉莉花は、ふっと息をのみ、それからほんのわずか首を振った。
「……いいえ」
それだけを、静かに告げた。
俊哉は顔を上げた。驚いたように、目を見開いた。
自分の言葉に返されたその短い返答が、予想よりもずっとまっすぐだったから。
だが、それは慰めではなかった。
茉莉花の瞳には、澄んだまなざしがあった。偽りではない、心からの言葉だった。
「田村さんは、もう吹っ切れているようでした。……きっと、大丈夫です」
声は、少しだけ明るかった。重さを抱えたままではなく、話を進めるための調子だった。
「人は誰でも、間違いを犯すものです。それに、私は知っています。あなたが、島田さんや――知代に対しては、誠実だったことを」
俊哉の表情が、わずかに揺れる。
それは、自分が意識していなかった領域に踏み込まれたような、そんな色だった。
「……一人で戦ってきたんですね、あなたは」
茉莉花は、そこだけは、少し声を柔らかくした。
「そして、その強さは……少しだけ、私にも分かる気がします。きっとあなたは、自分の価値を誰にも渡さずに生きてきた。それは……立派なことだと思います」
俊哉は黙っていた。だがその沈黙は、拒絶ではなかった。
茉莉花のその言葉には、遠く知代を見つめていた時間――冷遇されながらもひたむきに前を向き続けた、あの少女の背中への記憶が静かに重なっていた。
「……食べましょうか」
茉莉花がぽつりと口にすると、室内にふわりとした空気が戻ってきた。
まだ手を付けていなかった料理の数々が、静かに二人を待っている。湯葉、炊き合わせ、椀物、炊き立ての白米――雨の音の中で、湯気がほのかに揺れていた。
俊哉は小さく頷くと、黙って箸を取り、茉莉花もそれに続いた。
器に顔を近づけた瞬間、茉莉花の表情がやや緩む。
「……お出汁が、ちゃんとしてる」
しばし、静かに料理を味わう時間が続いた。まるで先ほどまでの緊張が、湯気とともに薄れていくかのように。
やがて、茉莉花が顔を上げて、少しだけ冗談めいた声で言った。
「……あなたを許さなければならない理由が、もう一つあるんです」
俊哉が不思議そうに視線を寄越す。
「うちの母がまた、早瀬さんをお呼びなさいとうるさくて。付き合ってもらえますか?」
それを聞いて、俊哉の表情に、久しぶりに見覚えのある笑顔が戻った。軽やかで、少しだけ大袈裟な芝居がかった笑みだったが、その裏に本当に嬉しそうな色が混じっていた。
「あのお母様ですね……これは大変だ」
茉莉花も口元を緩めた。
「きっと、どこで食事をしたか、何を話したか、根掘り葉掘り聞かれます」
「では打ち合わせが必要ですね。今日は静かな和食の店、会話の内容は省内の愚痴あたりでどうでしょう。ほら、今日も課長は機嫌が悪かったし」
二人は顔を見合わせ、笑った。わずか数時間前まで、心の奥の傷を抉られていたとは思えないほどに、穏やかで、優しい時間だった。
やがて食事を終え、廊下を戻って玄関に向かう。店の暖簾の下、雨はほぼ止みかけていた。茉莉花は立ち止まり、ふうと一息つくように言った。
「……おいしかったです」
俊哉はその横顔を見ながら、静かに返した。
「実は知代さんから、茉莉花さんは和食が好きだと、伺っていたのでね」
その口ぶりは、かつての俊哉そのものだった。少し誇らしげに、少しだけ照れ隠しのように、調子よく。
「お調子者、健在ですね」
「それでこそ、僕ですから」
茉莉花は苦笑しながらも、どこか安心したように頷いた。
財布を取り出そうとしたところで、俊哉が片手を挙げた。
「今日だけは、ご馳走させてください。……さすがに、こればかりは」
茉莉花は一瞬ためらったが、やがて素直に財布をしまい、静かに頭を下げた。
「……では、遠慮なく」
「お送りしましょうか?」
「結構です。……東横線の時間がちょうど良いので」
そう言って、茉莉花は傘を開いた。
夜風が軽く袖を揺らし、道端の葉がさらりと音を立てた。
俊哉は、その背中を黙って見送った。
その顔には、すっかり元の調子が戻っていたわけではない。けれど、背筋にはどこか、少し軽くなったような気配があった。
それは、誰にも見せたことのなかった重さを、ほんの少しだけ、誰かに預けたあとの――
そんな、柔らかな後ろ姿だった。




