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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第四部:茉莉花編
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四十八話

「……僕の母は、物心つく前に亡くなっています。肺を悪くして。だから記憶なんて、当然ありません。ただ、仏間に置かれた遺影だけが、ずっと僕の中の母親像でした」


 俊哉は、窓の外に視線を向けたまま言った。

 雨は少しずつ細くなり、簾の向こうで葉の先が滴を垂らしている。


「父は、旧制の高等商業学校を出て、横浜の銀行に勤めていました。几帳面で厳しいところもありましたが……僕には、よくしてくれました。成績を見て褒めてくれるし、一緒に碁を打ってくれたこともある。……支店長になる前は、自分で雪の中を歩いて通勤していたって、誇らしげに話していたのを覚えています」


 語り口には熱があった。それは、俊哉の中に確かに存在していた「尊敬」と「信頼」の記憶だった。


「だから僕は父みたいになろうと思っていました。高校を出て、銀行に入って、出世して。父のように、一つずつ積み重ねて。そうすれば、父も喜ぶだろうと思ってたし、実際、嬉しそうにしてました」


 そこまで語ったところで、俊哉はふっと微笑んだ。けれど、その笑みはすぐに消える。


「……それが崩れたのは、僕が十五のときです。ある日突然、父が再婚すると言って、僕と十歳も変わらない女性を家に連れてきました」


 茉莉花は一瞬だけ視線を上げた。

 俊哉は、ゆっくりと息をつく。


「……不思議と、その時は、嬉しかったんです。家に母が来るっていうのが、純粋に、夢みたいだった。僕にもようやく、普通の家族ができるって」


 言葉は静かだったが、その静けさには、壊れた幻を振り返るような苦さがあった。


「でも……彼女は、僕の母になろうとはしていなかった。むしろ、母であることに興味なんてなかったんでしょうね。彼女の関心は、父の地位と、財産と……」


 言葉を止め、俊哉はグラスの水を少し傾けた。

 結露の滴が、指先に冷たくまとわりつく。


「僕は、彼女がこの家にいる限り、何かが壊れると思いました。だけど、父は彼女に夢中で、僕の言葉なんて耳に入らなかった。……それでも僕は、ちゃんと家族になろうとして努力したんですよ。母親ってものに、どこかでまだ憧れてたから」


 茉莉花は何も言わず、静かにその言葉の行方を見つめていた。


「でも、彼女は――」


 俊哉は言いかけて、唇を噛んだ。

 雨の音が、一瞬だけ強くなったように感じられた。


 ――僕を子供として、いや人間として、扱ってくれませんでした。


 俊哉は、そこでふっと息を吐いた。グラスを卓に戻し、わずかに目を伏せた。


「だから、茉莉花さんに言われた人として扱うって言葉、確かに刺さりましたよ。でも、それは僕にとっての現実じゃないんです。理想には違いないけれど」


 その声音には、痛みというより、よく練られた防御の響きがあった。


「父に訴えても、父は新しい妻が優先で、僕の話など信じなかった。それで僕は心に決めたんです。もう、あの家から出ようって。……それで、一高を受けました。下宿を許してもらうには、それしかなかった。勉強だけは得意でしたから」


「合格したあと、父は一応喜んでくれましたよ。でも、あれは彼女から逃げるためでした。僕にとっては、あの家から抜け出すための通行手形でしかなかった」


 静かに、けれど誇るようにではなく語られる進学と下宿。

 それは、俊哉が選んだ自立ではあったが、断絶でもあった。


「その後、帝大に入って……銀行には行きませんでした。父の跡を継ぐのは、やめました。わざとです。同じ道を歩かないということが、自分なりの決着のつけ方だったし、父を失望させてやろうという気持ちがあったことも否定しません」


 笑うこともなく、俊哉は言葉を継いだ。


「それ以来、女性に――いや、島田を除いて、他人に気を許すことはなくなりました。信じれば期待が生まれる。期待すれば、裏切られる。そうなるくらいなら、最初から他人に寄りかからないほうがずっといい」


 それは、感情の剥き出しではなかった。

 むしろ、何度も反芻された論理が、形を変えて言葉に出てきたようだった。


「あなたのご友人の件……それは確かに僕が軽率でした。けれど、ほんの冗談のつもりだった言葉に勝手に気持ちを乗せて、それが裏切られたって言われたら……それはもう、信じたほうの責任なんじゃないですか?」


 ふと、俊哉は眉を動かした。けれど、その目は茉莉花を見ていなかった。

 見てしまえば、その言葉が誰に向かっているのか、自分でも分かってしまうからだ。


「……だから、僕はこれからも変わりません。人と誠意ある付き合いなんて、しない。できないんです。……島田のような、ほんの数人を除いては」


 それは宣言のようだった。言い切り、閉じることで、過去も現在も自分の形に押し込めようとするような、頑なな言葉だった。


 だが――その時だった。


 俊哉はふと、視界の端で何かが動いたのを感じた。

 茉莉花の頬を、一筋の涙が静かに伝っていた。


 けれど、それが現実だったのか確信が持てなかった。次の瞬間、彼が瞬きをすると、その痕跡は跡形もなく消えていた。頬は乾いており、表情も変わっていない。

 見間違いだったのか――あるいは、ほんの刹那にだけあらわれた、彼女の揺らぎだったのか。


 俊哉は口を閉ざしたまま、その視線を見つめた。

 茉莉花はまっすぐに座り直し、少しだけ呼吸を整えてから、静かに口を開いた。


「お父様のことも、その女性のことも、過去に背負ってきたことも。……それは、確かに同情に値します。あなたがどれだけ傷ついたか、想像もつきません」


 言葉はやわらかかったが、その目は、曇りなく真っ直ぐだった。


「そして、私はその女性に対して、怒りを覚えます。子どものあなたにとって、家庭は唯一の拠り所だったはず。その場所を壊した大人の責任は、重い。……あなたとその人との関係においては、あなたは被害者です。全面的に」


 一瞬、俊哉の表情が揺れた。だが、それは慰めの言葉では終わらなかった。


「けれど」


 茉莉花は、そこで一度だけ言葉を切った。その沈黙には、重みがあった。


「……その出来事と関係のない場所で、あなたが他人を傷つけたとしたら、それはまったく別の話です」


 俊哉の目が、ふと細くなる。言い返すでも、反らすでもなく、ただ黙って聞いていた。


「自分が裏切られたことを理由に、人と距離をとる。その気持ちは分かります。怖さも、痛みも、あるでしょう。……でも、自分が裏切られたからといって、他人の気持ちを軽んじていい理由にはなりません」


 声は強くならなかった。むしろ淡々としていた。

 けれど、それがかえって説得力を帯びていた。


「あなたが、ご友人の気持ちを勝手に期待したほうが悪いと突き放すのなら、あなたはあの女性と同じことをしているのだと、私は思います。あなたを苦しめたのと、同じやり方で、他人を――女性を――扱っている」


 俊哉の指先が、わずかに動いた。けれど口は閉ざされたままだ。

 茉莉花は目を伏せず、そのまま言った。


「……私たちは、もう子供ではありません」


 その声は、静かだった。


「子供のころに負った傷が癒えないのは、仕方のないこと。けれど、だからこそ、大人になった今――」


 一呼吸。

 茉莉花は、ゆっくりと彼の目を見る。


「――自分の心の傷は、自分で癒すことを学ばなければいけません」


 言い終えたあと、部屋にはふっと静寂が戻った。

 襖の向こうで、雨音がかすかに続いている。


 俊哉は、茉莉花を見ていた。けれど、彼女はすぐには目をそらさなかった。その眼差しには、どこか遠くを見るような深さがあった。

 まるで、その言葉が――俊哉にだけでなく、自分自身にも向けられていることを、誰よりもよく分かっているかのように。

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