四十七話
そして、金曜の午後六時二十分。
東横線・反町駅の改札を出た茉莉花は、絹の雨傘を軽く畳み、商店街を抜けるようにして歩いた。
濡れた石畳から立ちのぼる匂いは、夏の終わりと秋の入り口を同時に孕んだような、少し湿った土と風の混じった匂いだった。
店は、駅から少し奥まった通りにある。木戸の前まで来ると、時刻はまだ約束より十分ほど早かった。
(……待たせるのは嫌だけれど、先に着くのも、なんだか悔しい)
そんなことを思いながらも、茉莉花は微かに口元を歪めた。自分でも、そういう感情が芽生えるのが不思議だった。
だが、蒸すような外気と小雨交じりの空の下、わざわざ店先で立ち尽くすほど気丈でもなかった。
格子のある引き戸を静かに開け、女将風の女性に声をかけた。
「……すみません。連れがまだなのですが、中で待たせていただいても?」
茉莉花の問いに、女将はすぐに笑みを浮かべて言った。
「早瀬様のお連れ様でいらっしゃいますか?」
わずかに驚いたが、茉莉花は静かに頷いた。
女将は慣れたように深く頭を下げると、廊下の奥へと案内した。店内は木の香と静けさが混ざり合い、壁の一部には薄藍の絽の暖簾がかかっていた。
細い雨音が遠くに聞こえ、すだれ越しに見える中庭には、小さな灯籠と苔むした石が置かれている。
案内されたのは、奥まった一間の個室だった。四畳半ほどの空間に、低い卓と座布団が置かれている。窓の外には雨粒を含んだ緑がぼんやりと揺れていた。
「すぐに氷水をお持ちします」
女将が下がると、すぐに薄いガラスのコップと、結露した小さな水差しが盆に載せられて届いた。氷が静かに音を立てて沈み、冷気がほんのりと卓の上に広がる。
茉莉花は扇子を膝に置き、ふうと小さく息をついた。
静かな空間のなか、ガラス越しに見える雨脚がやや強まり、風が簾を軽く揺らした。
その涼やかさに、ほんの少しだけ、肩の力が抜けていく。
(……わざわざ、部屋まで取っておいたのね)
そう思いながら、茉莉花はふと目を伏せた。
障子越しに雨の気配が淡く射し込んでいた。氷水のグラスには新たな露が浮き、茉莉花の指先はその冷たさを確かめるように、そっと縁をなぞった。
ときおり、簾を揺らす風が庭の葉を濡らす音が聞こえる。だが部屋の中には、時が少し止まったような静けさが漂っていた。
扉がすうっと開いたのは、それから七分ほどが過ぎたころだった。
「……遅くなりました。仕事がちょっと立て込んでしまって」
俊哉が、軽く息を継ぐようにしながら入ってきた。麻の上着の肩には、雨粒がまだ小さく残っていた。整えられた髪と、いつもの柔らかな笑み。
けれどその笑みは、どこか張りついていて、自然な軽さというより、慎重に選ばれた仮面のように見えた。
「でも……驚きましたよ。まさか、茉莉花さんのほうから誘っていただけるとは」
冗談めかすその声には、微妙な空白があった。彼の調子を、茉莉花は黙って受け止めた。
言葉は返さなかった。表情も動かないまま、ただ一度だけ首をかすかに傾けた。
俊哉は、彼女の無言を咎めることなく、卓についた。
やがて、仲居が料理を運んできて、手際よく器を並べていく。山葵の香り、薄口の出汁、絹のような湯葉。慎ましく整えられた献立が卓に並ぶと、女将は最後に静かに言った。
「お食事のあいだ、襖をお閉めしてもよろしいでしょうか」
茉莉花が小さく頷くと、女将は会釈し、するすると音を立てて襖を閉めた。
その瞬間、部屋の空気がわずかに変わる。外との仕切りがひとつ消えたことで、逆に内部の緊張がふっと浮かび上がった。
俊哉は、茶碗に手をかけようとして、やや迷ったように動きを止める。
そして、低い声で言った。
「……先日は、申し訳ありませんでした」
その言葉に、茉莉花の視線がふと動いた。
「まさか、あの方が茉莉花さんのご友人だとは……彼女だけでなく、あなたにまで、不愉快な思いをさせてしまって」
静かな言葉だった。取り繕うような笑みはなかった。
けれど、その誠意を茉莉花はすぐに否定した。
「……彼女が私の友人かどうかは、関係ありません」
俊哉のまなざしが、わずかに揺れた。
茉莉花は、箸を取らずにそのまま続けた。
「私はあなたに、人間関係の在り方を説くつもりはありません。あなたがどういう性格で、どんな人間関係を築こうと、それはあなたの自由です。……それに、あなたの軽薄さを咎める資格も、私にはありません」
言葉は静かだったが、ひとつひとつの音が明確だった。
「ただし、それは、お互いにその前提を了解している者同士にしか、許されないことです。もし、あなたがそれを見誤って、誠実で純粋な好意を向けられてしまったのだとしたら」
俊哉の眉が、わずかに動いた。
「そのとき、あなたがとるべき態度は、軽く流すことではありません。相手を一人の人間として尊重して、それを突き返すことです」
茉莉花の言葉に、どこか反射するように、彼の表情がほんの一瞬だけ歪む。
それは、彼にとって「痛いところ」を突かれたような、そんな色だった。
茉莉花は、それ以上言葉を重ねなかった。
俊哉の内面に波紋が走っていることを見て取ったうえで、沈黙の価値を知っていた。
俊哉は、しばらく何も言わず、箸も取らずに卓を見つめていた。
やがて、ふと視線を持ち上げて、ぽつりと呟くように言った。
「……人として扱うって、言葉は、なんだか……やけに堪えますね」
その声は、いつもの俊哉の調子とは違っていた。どこか遠くを見ているような、過去を手繰り寄せるような――
彼の話が始まる気配を、茉莉花は黙って待った。そして彼はゆっくりと口を開いた。




