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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第四部:茉莉花編
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四十六話

 九月に入ってもなお、霞ヶ関の空は夏の名残を手放しきれずにいた。午後の日差しは傾きつつあるが、風のない日には、石畳の上に陽炎のような熱が揺れていた。


 大蔵省の庁舎。高い天井と厚い壁が外の熱気をやや和らげるものの、そこにあるのは冷房の涼しさではなく、膨大な書類と静寂が染み込んだ、官庁特有の重たさだった。


 朝倉茉莉花は、その庁舎の一室、国際文書第二課と呼ばれる部署の一角に席を与えられていた。かつて応援勤務で訪れたときとは異なり、今回は正式な辞令を伴った異動だった。

 部署の性質上、原資料の読み込みと、外電資料や報告文の翻訳が主な仕事となる。英語を扱える職員はごく限られており、女性職員となればなおさらだった。


 ──つまり、ここでは誰も、彼女に「手加減」しない。


 それは望んでいた環境だった。雑用ではなく、本質に関わる仕事。指摘も容赦なく、校閲も厳密だったが、茉莉花にとってはむしろ心地よかった。

 文字に向き合い、意味を掘り下げ、時間を忘れて思考の海に沈む日々。そんな中で、彼女は再び「ひとりであること」の静けさを手にしていた。


 ──もっとも、完全な静寂とはいかない。


 隣の第一課には、見慣れた背の高い男の姿をたびたび見かけた。

 早瀬俊哉。時折この部屋に出入りし、特定案件の調査や草案に関わっているという。


 廊下で見かけた彼は以前と変わらず、女性の一人ひとりに軽く挨拶を交わし、冗談を飛ばす素振りを見せる。

 けれどそれはかつてのような、全方位に向けた自然な気軽さではなく、相手との一線も明確に引いたような会話。

 茉莉花の視線が触れると、それに気づいたように、彼はほんのわずか目を逸らすこともあった。


 そんなある日、昼の書類整理が一段落したころ、俊哉がいくつか書類を片手に現れた。


「少しだけ……頼めますか」


 相変わらず飄々とした物腰だったが、その声には、何か他の女性と話す時とは違う慎重さが滲んでいた。

 差し出されたのは、外務経由で回ってきた英文電報の複写と、予算調整の補足資料。いずれも専門用語が多く、一般職員には荷が重い内容だった。


「内部向けの仮訳と要旨整理を」


 茉莉花は無言で手を伸ばした。俊哉の手から書類を受け取る瞬間、彼の指先がわずかに震えたようにも思えたが、目を合わせることはなかった。


「……かしこまりました」


 事務的な声でそうだけ告げると、茉莉花はすぐに作業に取り掛かった。




 午後も遅くなった頃、彼女は仕上げた資料を一枚の紙に丁寧にまとめ、表紙に赤鉛筆で下線を引いた。

 報告の手順通りにホチキスを留め、目立たぬよう封筒に収めて、俊哉の元へ持参した。


「翻訳、完了しました。お手すきの際にご確認いただき、必要があればご指摘ください」


 俊哉は書類を受け取り、軽く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その声の語尾が、わずかに伸びた。そのまま封筒を開こうとした彼の手が、ふと止まる。


 封筒の内側、書類の一枚上に小さな白紙のメモが一枚、そっと添えられていた。淡く青みがかった罫線の上に、端正な筆致が並んでいる。


 ――八月分のお食事がまだでした。土曜の午後でいかがですか。


 それは、あくまで業務に差し支えないよう配慮された、極めて控えめな「私信」だった。

 けれど、そこに込められた一文が、俊哉の頬をわずかに引きつらせた。



 時刻は午後五時をわずかに過ぎたところだった。日課の報告を終えた茉莉花は、書類を所定の箱に収め、ペン先のインクを軽く拭ってから、静かに椅子を引いた。

 今日の作業は、これでひと区切り。夕方の霞ヶ関には少しだけ秋の気配が混じり始めており、窓の外に広がる空は、午後よりも少しだけ薄く、青みが増していた。


 立ち上がり、背後の棚に書類を戻そうとしたそのときだった。


 視界の端に、すっと人影が横切るのが見えた。風のように、足音を立てずに通り過ぎた誰かが、自分の机の上に、そっと何かを置いていったのだ。


 茉莉花は、胸の奥に小さな音が跳ねるのを感じながら、その紙片に目を落とした。


 白い便箋の切れ端。そこには細身の、けれど癖のある男性的な筆跡で、簡潔にこう書かれていた。


     金曜 午後六時半

     菊乃井(反町)


     ※ 土曜午後は所用あり

       お帰りが遅くならない場所を選びました。

      ご都合が悪ければ改めて。


 静かに紙を手に取り、読み終えたあとで、茉莉花はそれを無言で二つに折り、鞄の内ポケットにすべり込ませた。


 気づけば、通り過ぎた人影は背中を向けたまま数歩先にいた。


 彼は振り返ることもせず、ただ、肩越しにごく短く会釈だけを残し、そのまま歩き去っていった。

 机の上にはもう何も残っていなかった。

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