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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第四部:茉莉花編
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四十五話

 頬を打った右手をそっと下ろしながら、茉莉花はまっすぐ田村の方へと身体を向けた。夕暮れの石畳の上に落ちた二人の影が、どこか心許なげに揺れている。


「――私たちは、付き合っていません」


 その言葉は、風よりも先に届いた。田村の目が、驚きと困惑の入り混じった光で揺れる。口を開けかけて、けれど言葉が出てこないようだった。


 それで十分だった。茉莉花には、いま目の前で起きていることの筋道が、ほとんど手に取るように分かっていた。

 田村が恋心を告げ、それを受けた俊哉が、自分の名を使って断った――たぶん、そういうことだ。


「見合いを勧めてくる母を納得させるために、付き合っているふりをしてほしいとお願いしたのは、私のほうです。――けれど、私たちのあいだに恋愛感情はありません。……田村さんが思っているような関係ではないんです」


 声を荒げることなく、淡々と告げるその語調には、わずかに硬さがあったが、感情に濁りはなかった。

 茉莉花は、真実を語るときほど、言葉の輪郭を正確に刻まなければならないと知っていた。


 田村は、小さく首を横に振った。その仕草が、否定なのか、理解しきれない戸惑いなのか、すぐには読み取れなかった。


 だが、茉莉花はその揺れるまなざしをきちんと受け止めたうえで、もう一度、自分の言葉を押し出した。


「でも、それが本質じゃない。重要なのは私達が交際しているかどうかではありません」


 そう言って、今度はゆっくりと俊哉の方へ振り返る。ひとつ息をついてから、言葉を選びながら、しかしその視線は鋭く、逸らすことなく彼を見据えた。


「早瀬さん。田村さんに向けられた気持ちが好意じゃなかったとしても構いません。彼女の好きだという気持ちに答えられないことも、人間だったらあるでしょう。ですが――あなたは、人としての誠意を持って、彼女に接していましたか?」


 最後の一語には、明確な重さがあった。

 その問いかけのなかに、茉莉花自身が今この場に立つ理由のすべてが込められていた。


 俊哉は、茉莉花の問いを受けたまま、しばらく言葉を発せずにいた。

 叩かれた頬はまだ赤く、眉のあたりに、いつもの気の抜けた笑みの代わりに、何かを見失ったような陰りが残っていた。


 だが、やがてその沈黙を破るように、彼は息を吐いて取り繕うような声を出した。


「……僕は、そもそも女性と真剣に付き合う気なんて、初めからありませんよ。そういう面倒なことに踏み込まないって、決めてるんです。普段の調子も……まあ、社交辞令みたいなものでしょう?ほとんどの人は、分かったうえでつき合ってくれてます」


 その声には、いつもの調子が戻りつつあった。言い訳とも自己防衛ともつかない響きがあり、聞き慣れた軽さが言葉の端に滲んでいた。

 だがその言葉が終わるか終わらないかのうちに、茉莉花の返答がかぶせるように返ってきた。


「――田村さんは、そうではありません」


 その声は、あくまで静かだった。

 けれど、その静けさの中に、凍てつくような冷たさがあった。


「彼女はあなたに、真剣に恋をしていました。それが、どういうことか、あなたは分かっていない。……あなたの言葉や笑顔が、本気で誰かの心を動かしたとき、その気持ちに応えられないなら、せめて、傷つけないように振る舞うべきです」


 俊哉の顔から、ふっと笑みが消えた。わずかに唇が動きかけ、しかしそのまま言葉にならなかった。

 茉莉花は一歩、俊哉の方へ進み、はっきりと告げた。


「謝ってください」


 静かながら、その一言はまっすぐに俊哉の胸に突き刺さった。風の流れが一瞬止まり、夕暮れの霞ヶ関の門前に、短く、鋭く、その言葉だけが響いた。

 俊哉はほんのわずか、表情をこわばらせた。ややあって、諦めたように視線を落とし、そして言った。


「……傷つけてしまい、申し訳ありませんでした」


 その声は小さかった。完全に誠意あるものとは言い難く、どこか形式ばっていた。だがその眼差しの奥には、わずかに後悔とも、罪悪感ともつかない影が浮かんでいた。


 田村は、その言葉を聞きながら、ぐっと俯いた。うなずいたのか、ただ堪えたのか、茉莉花には分からなかった。


 けれど、それでも十分だった。茉莉花は彼女の腕をそっと取ると、ひとことも発することなく踵を返した。


 そのとき、俊哉に向けた茉莉花の眼差しは、氷のように冷ややかだった。かつて冗談を交わし、淡く距離を測り合ってきた相手を見る視線とは、まるで違っていた。

 茉莉花と田村の足音が門を離れていく。後ろからは、俊哉の声も、呼び止める気配もなかった。




 そして辞令が正式に下り、茉莉花が逓信省で過ごす最後の日がやってきた。


 庁舎の廊下を歩くたび、聞き慣れた足音や、所々で交わす「お疲れさまです」という言葉が、ほんの少しだけ名残惜しく響いた。

 机の引き出しを閉じる音さえ、どこか少し鈍く響くようだった。


 配属当初から世話になった上司や、何度か資料整理を手伝ってくれた年下の職員に別れの挨拶を済ませると、茉莉花は重ねた書類を脇に抱え、庁舎を出た。

 午後四時半。まだ陽は高いが、風にはわずかに秋の気配が混じり始めていた。


 正面の門を出たところで、彼女の視線がふと止まった。


 門柱の陰に、小さな影が立っていた。

 田村だった。


 茉莉花が近づくと、彼女はすうっと深く一礼し、それからゆっくりと口を開いた。


「……この間は、ごめんなさい。私、ひどい言い方をしてしまって」


 その声にはもう震えはなかった。


「でも、来てくれて、あんなふうに怒ってくれて嬉しかったです。本当に、ありがとう」


 言い終えて、田村はぺこりと頭を下げた。

 茉莉花は肩の力を抜いて、首を小さく振った。


「こちらこそ、すみません」


 二人の間に、一瞬だけ風が通った。通りの銀杏の葉がかすかに揺れ、影が歩道に踊った。


「……もう、吹っ切れました」


 田村はふっと笑った。すっきりとした表情だった。夏の陽の眩しさに少し目を細めながら、どこか憑き物が落ちたような軽さがあった。


「でも、朝倉さんと早瀬さんが……本当にお付き合いしてたら、それはそれで、なんだか素敵な気もしますけどね」


 茉莉花は、言葉の意味を咀嚼するのに、ほんの一拍だけ時間を要した。

 思いがけなかったのだ。

 だがすぐに、ふっと笑って肩をすくめる。


「ありえませんね」


 その言葉に、田村も笑った。小さく、控えめに、けれどその目元は晴れていた。

 二人はまたいつかと簡単な挨拶をかわすと、反対の方向へ歩いて行った。

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