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愛という名の花を知るまで  作者: 長月
第四部:茉莉花編
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四十四話


 田村の話は、その日を境に、茉莉花の昼のひとときを彩る常連のようになった。


 「今日も少しだけ話せました」「会議前の廊下でちょっとだけ目が合って……」


 そんな細やかな出来事を、田村は毎日のように一言二言、控えめに、それでいてどこか弾む声で語ってくるのだった。


 茉莉花は最初こそ返答に戸惑っていたが、やがてその話が来るのを心のどこかで待つようになっていた。甘さよりも、清涼感のある朝顔のような恋心。

 田村の、あの真面目で口数の少ない彼女が、恋のことでここまで表情を豊かにするとは、最初はどこか信じられなかった。


(でも……悪くない)


 そう思えた。婚期だ、玉の輿だと騒ぐ同僚たちの言葉よりも、田村の気持ちそのもののほうが、ずっとまっすぐで、耳に心地よかった。


 ところが、それは突然に終わりを告げた。


 一週間が経ち、逓信省での勤務も残りわずかとなったある朝、庁舎の廊下を歩いていた茉莉花は、向かいから戻ってきた田村の姿を見て、思わず足を止めた。


 ほんの一瞬――


 その表情には、いつもの穏やかな微笑の名残がなかった。

 目元は腫れぼったく、うつむいた顔には、泣いたあとの気配がくっきりと刻まれていた。


 だが、彼女は何も言わず、ただ黙って通り過ぎていった。職員室の扉を開ける指先が、わずかに震えていた。


 午前中、田村はほとんど口をきかなかった。書類を渡すときも、返事はかすかに聞こえるほどの声で、目を合わせることすらなかった。


 そして昼休み。思い切って声をかけたのは、茉莉花のほうだった。


「田村さん……何か、ありましたか?」


 その問いに、田村はほんの一拍、茉莉花を見た。


 その目には、怒りとも悲しみともつかぬ、刺すような光が宿っていた。


「……裏切るなんて、ひどい。どんな気持ちで、今まで私の話を聞いてたの?」


 きっぱりと投げられたその言葉に、茉莉花は思わず息を呑んだ。

 何のことか、すぐには理解できなかった。ただ、田村が――これまでで見たこともないほど強い感情を剥き出しにしているという事実だけが、目の前に突きつけられていた。

 田村は、それだけを言い捨てると、足早に踵を返し、廊下へと出ていった。


(……どういうこと?)


 呆然と立ち尽くす茉莉花の中に、ふいに一つの可能性が閃いた。

 ――まさか、彼女の言う「好きな人」って。


 弾かれるように席を立つ。階段を追いかけるほどの勢いで廊下を渡り、角を曲がったところで、田村の姿を見つけた。


「田村さん!」


 呼び止めると、彼女は立ち止まったものの、振り返らなかった。

 茉莉花は、静かにその手を取った。指先は冷たく、力が入っていた。


「……今日の帰り、時間、ありますか?」


「……どうして、そんなことを聞くの?」


「……彼のところへ行きます。――一緒についてきてください」


 田村の肩が、かすかに震えた。




 大蔵省の庁舎前、石の門柱に沿って立つ二人の影が、暮れかけた陽に伸びている。田村は無言だった。茉莉花もまた、何も言わなかった。

 ただ、互いに少し離れた位置に立ち、まるで別々に来たかのように、門の向こうをじっと見つめていた。


 蝉の声すら聞こえない夕暮れの静けさ。出入りする人々のざわめきが波のように押し寄せては遠ざかり、まるで二人だけが時間の止まった場所にいるかのようだった。


 やがて、庁舎の重たい扉がゆっくりと開き、見慣れた背の高い男が門をくぐって出てきた。

 麻の上着を片手に持ち、ネクタイをゆるめたその男――早瀬俊哉は、こちらに気づくとほんのわずかに目を細め、飄々とした口調で、茉莉花に声をかけた。


「おや、茉莉花さん。こちらにいらっしゃるとは……」


 その声が宙に浮いたまま、彼の視線が隣へと移った。


 そこで、俊哉の表情がわずかに変わった。

 目の奥に一瞬だけ何かを探るような光が差し、そして低く、唸るように言葉を漏らす。


「……おっと。お知り合い、でしたか」


 その声音は、いつもの調子からわずかに外れていた。

 どこか読めない目つき。軽さを装っているようでいて、底が見えない。


 そのとき、隣で立っていた田村が、ほとんど呟くように言った。


「……茉莉花さん、だなんて。……やっぱり、お付き合い、していたんですね……」


 その声が、夕闇に吸い込まれる前に――


 ぱしん、と乾いた音が辺りに響いた。


 茉莉花の右手が俊哉の頬を打ちつけていた。


 何の予告もなかった。ただその瞬間、茉莉花の中で何かが音を立てて崩れたのだった。


 ――田村の傷ついた瞳。

 ――俊哉の、いつもと同じ、飄々とした態度。

 ――そして、自分自身の感情の底に、うごめいていた名前のつかない怒り。


 俊哉は、叩かれた頬を押さえもせず、ただその場に立ち尽くしていた。

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